新薬候補の9割が市場に届かず失敗に終わる製薬の世界で、数々のスタートアップがAI技術にすべてを賭けてその確率を覆そうとしている。
新薬はたいてい、悲劇から生まれる。 ピーター・レイはそれを知っている。現在のジンバブエで生まれ、整備士の父と放射線技師の母の元で育った彼は、ジンバブエ独立戦争のあいだに家族と共に南アフリカへ逃れた。1980年、装甲車の隊列で移動したその旅を彼は覚えている。照りつける太陽の下、兵士が8歳のレイに機関銃の撃ち方を教えてくれた。しかし母親は体調がすぐれず、何度も移動を止めなければならなかった。 ケープタウンの医師たちは母にがんの診断を下した。レイは母の放射線治療に付き添ったことを覚えている。病院の部屋、人工肛門の袋。母は海辺が好きで、波打ち際を歩くのが好きだった。けれども、次第に海辺に行くのも難しくなった。一時的に退院することもあり、そのときには病気がよくなりそうに思えた。レイは希望を抱いたが、やがて事態は悪化した。手術、放射線治療、化学療法──80年代に選択肢としてあった治療法は尽きた。ベッドに横たわって死にゆく母に、レイはどうにかして世界を変えてみせると約束した。そのとき彼は13歳だった。 レイは医薬品化学者になるために勉強した。最初は南アフリカで学費ローンを組んで学び、その後英国のリバプール大学へ進学した。それから英国各地の製薬会社で数多くのプロジェクトに携わってきた彼はいま53歳となり、Recursion(リカージョン)という製薬会社で主任薬剤設計者として勤務している。母に誓ったあの約束を、彼はいまもよく思い出す。「あの約束は生涯ずっとわたしのなかに生きています」と彼は言う。「だから、がんに作用する衝撃を与える薬を市場に出さなければならないのです」 自分の身に起きた悲劇をほかの誰かに繰り返させまいとする、その思いは強い動機になるだろう。だが新薬開発のプロセスは、昔からひどく骨の折れる、途方もなく時間のかかる道のりだ。まず、レイのような化学者たちは標的を絞る。たいていの場合標的になるのはタンパク質で、アミノ酸が鎖状に長く連なって折りたたまれた形状をしているその物質のモデルを化学者はコンピューター画面に映し出し、黒い虚空の中でそれが回転する様子を見つめる。表面の曲線やくぼみを観察し、分子が宇宙船のように暗闇を航行してそこにドッキングできそうな場所を探す。そして、原子を一つひとつ組み合わせてその宇宙船を設計するのだ。 新しい分子が完成すると、化学者はそれを生物学者に渡す。そして生物学者は、実験用の温室で生きた細胞にその分子を投与する。だが、ここでも悲劇が起きる。多くの細胞が死んでしまうのだ。しかも、その理由は必ずしも明らかではない。生物学は複雑で、新薬は期待通りには作用しないものだ。化学者たちは別の分子をつくり、さらにまた別の分子をつくり、この調整は年単位で繰り返されることも多い。 Insilico Medicine(インシリコ・メディスン)の生物学者キース・ミクールは、別の製薬会社での経験を語ってくれた。5年の歳月をかけて開発した最も有望な分子が予期せぬ危険な副作用を示し、それ以上開発を進められなくなったのだという。「大勢の化学者と大勢の生物学者が関わり、何千もの分子をつくったのに、実質的な進展は何もありませんでした」と彼は言った。 研究チームの運が本当によければ、マウスに投与したときに期待通りの効果を示す分子が手に入る。そうなれば、次は少人数の健康な人間のボランティアに投与する機会が得られる──つまり第I相試験だ。ボランティアの健康に問題が起きなければ、次はもっと多くの人、対象の病気を抱える患者も含めて投与する──第II相試験だ。患者の病状が悪化しなければ、次の段階である第III相試験で、できる限り多くかつ多様な患者グループに投与することができる。 各段階で、ほとんどの人にとって理解不能な、そしてさらに多くの人にとって予測不能な理由によって、膨大な数の薬が脱落していく。多くの希望を乗せた新薬候補のうち、9割以上が途中で失敗に終わる。薬の開発者に会ったら、そっと、慎重に、これまで薬を世に出せたことはあるか聞いてみるといい。「それはとても稀なことです」と、ニラパリブという卵巣がん治療薬をひとつ市場まで到達させた実績をもつミクールは言う。「わたしたちのチームのような成功は極めて珍しいケースです」 だが、ミクールやレイ、そしてほかの化学者や生物学者たちはいま、新しいアプローチを試みている。レイに取材をしたとき、彼はRecursionの同僚たちと開発に取り組んでいる分子を興奮気味に見せてくれた。それは、血液がん細胞の増殖を妨げるよう設計されるMALT1阻害薬と呼ばれるものの1種だ。彼のパソコンの画面上では、その新薬候補「REC-3565」は、環と線が連なるだけの宇宙船の骨格が虚空に浮かんでいるにすぎない。だがそれは現実世界にも存在する──レイの取材のわずか数週間前、この分子を含む小さな錠剤が第I相試験の最初のボランティアたちの喉を下ったところだった。 この分子の特別な点は、これまでの難関を生き延びてきたことだけではない。REC-3565は「人間による設計では生まれなかったでしょう」、とレイは言う。この分子に辿り着くために必要だった論理的飛躍は、人工知能(AI)を使わずには成しえなかったと彼は考える。 世界の製薬大手がAIの進展にようやく追いつこうとしているなか、Recursionはその技術に全力を注ぐスタートアップのひとつだ。12年前にユタ州の研究者たちによって設立された同社は、さまざまな条件下で細胞を撮影し、その膨大な画像データベースをAIに解析させて新たな標的候補を探り出す研究方法で名を上げた。2024年には、同じく創業10年のスタートアップであるExscientia(エクシエンシア)──レイのかつての勤務先でもあり、AIを用いた小分子設計のパイオニア──を買収した。 ミクールが勤める2014年創業のInsilicoもAI技術を活用している。Xaira Therapeutics(ザイラ・セラピューティクス)は24年だけで10億ドル(約1,470億円)のベンチャー資金を調達し、バイオテック業界においてここ数年で最大規模の資金調達となった(24年にこれと同額を集めたスタートアップは、OpenAIの元トップ研究者が共同設立したSafe Superintelligenceのみだ)。 現在のところ、AIを使って設計された薬はまだ市場には出ていない。しかし、RecursionとInsilicoは候補薬を第II相臨床試験まで進めており、つまり患者に対して安全性が確認されている。Recursionの「REC-994」は脳に病変を引き起こす脳海綿状血管腫の治療薬であり、Insilicoの「ISM001-055」は進行性で致死的な肺疾患である特発性肺線維症の治療薬だ。これらのほかにも、レイが見せてくれたものを含め、InsilicoやRecursionなどの企業でAIを利用した薬候補の開発が進められている。 いまのところ、そうした分子はすべて裏向きに伏せられたカードのような存在だ。AIは本当に、従来よりも速くかつ安価に効果のある薬をつくることができるのか? それとも、薬の開発者たちはまたしても負け札を引くのか? 1981年夏、『Fortune』の表紙に「デジタル創薬の時代到来」という見出しが躍った。記事では、科学者たちがコンピューターによる可視化技術を使って、細胞で実験すべき最良の分子を選び出そうとする様子が紹介されていた。創薬研究の行き詰まりを打破する試みだ。 ブログ「In the Pipeline」を長年運営している医薬品化学者デレク・ローは、当時この記事が一部の新薬開発者を不安にさせたことを覚えているという。ローが勤めていた製薬会社Schering-Plough(シェリング・プラウ)には「CADD:コンピューター支援創薬」と書かれた部屋があり、高価な機器がぎっしりと並んでいた。「向かいの部屋の医薬品化学者たちはあまりそれを気に入っていなかったので、自分たちの部屋のドアに“BADD:脳支援創薬”と書いたサインを掲げていました」とローは語った。 確かに、コンピューターはあらゆるものを一変させた。だが、創薬という難題はカーソルをちょっと動かしただけで消えてなくなるようなものではなかった。分子のパーツを無作為に組み合わせることで新たな種類の薬を偶然見つけ出そうとする、いわゆる「コンビナトリアル化学」について、ベテランの新薬開発者たちは冷ややかな口調で語る(実際、この手法はうまくいかなかった。理由のひとつは、そのランダムであらゆる分子に等しく機会が与えられる民主的すぎるやり方には莫大なコストがかかるからだ)。 一方、標的と分子の相互作用をシミュレーションできる計算化学はしぶしぶ受け入れられた。ただし、その成功は標的や候補分子の正確なモデリングに依存する。そして、正確なモデルをつくるためには結局昔ながらの地道な実験作業が欠かせない。 むしろ、生物学の複雑さが明らかになるにつれて創薬はさらに厄介になっている。「以前よりも気にしなければならないことが増えました」とローは言う。例えば、異なる遺伝子変異によって引き起こされるがんは、それぞれ異なる治療法に反応する。また、ある受容体に結合する薬は心臓障害につながる可能性が認められており、どれほど有望な新薬候補でもその受容体への親和性が示されれば候補から外さなければならない。 Recursionの主任生物学者カレン・ビレッチは、創薬研究者がAIについて語るのを初めて聞いたときのことをいまでも覚えている。93年のある早朝、彼女はサンフランシスコ湾沿いにある勤務先の駐車場を数人の同僚と一緒に歩いていた。勤務先の会社はGenentech(ジェネンテック)という小さなスタートアップだった(のちにRocheに470億ドル[約6兆9,000億円]で買収された)。 ビレッチの同僚のプログラマーたちは、機械学習の一形態であるニューラルネットワークを使って患者情報のなかにパターンを見つけ出せないかを探っていた。ある患者には薬が効き、別の患者には効かない理由を解明するヒントになることを期待したのだ。「素晴らしい薬が人間に投与されても、効果が出ないことはよくありました」とビレッチは言う。ビレッチらは駐車場で、人間には見えないパターンを学習して見つけられるソフトウェアがいつか登場するだろうかと話し合った。「“訓練”という言葉は使いませんでした。当時はそんな表現はまだ使われていなかったのです」 その後の数十年間で、AIには患者データからパターンを見つけ出す以上のことができるかもしれないということが徐々に明らかになった。2020年、AIの可能性を決定的に示す出来事が起きた。秋に行なわれた世界的なコンペティションで、Alphabet傘下のDeepMindによって開発されたAIが、タンパク質が最終的にどのような形に折りたたまれるかを正確に予測する能力を示したのだ。それは生物学における代表的な難題であり、創薬研究者にとっても重要な課題だった。 DeepMindのAIはほかのすべての参加者を圧倒した。ワシントン大学の生化学者デイビッド・ベイカーはこれに触発され、AIを使って新薬用のタンパク質を設計する研究をさらに深く掘り下げ、24年に彼はその研究でノーベル化学賞を受賞した。「従来の開発手法を超える手法が見つかるまでに、そう時間はかかりませんでした」と彼は語る(ベイカーはXairaの創業者のひとりだ)。 今後、AIでほかにどんなことが可能になるだろうか? 例えば、これまでに存在したすべての薬とその作用に関するデータをAIに見せた上で、未試験の分子のデータベースを与えて新たに可能性を探るべき候補を見つけさせたらどうだろう? あるいは──これが25年現在における機械学習をめぐる議論の到達点だが──生物学に関して人類がこれまでに生み出してきた膨大な情報をソフトウェアに読み込ませ、不気味でも深遠でもある行為として、まったく新しい何かを提案させることができるとしたら? 時には、人類がいま学びつつあるように、AIが一見もっともらしく見えるものを生み出しはするものの、実際には言葉や思考の気まぐれな寄せ集めにすぎず、中身は空っぽ、ということも起こる。創薬には現実世界での広範な検証が欠かせないので、そのようなAIの提案がプロセスの最後まで生き残る可能性自体は低い。AIの“幻覚”による最大のリスクはむしろ、時間と資源の浪費だろう。それでも、創薬の失敗率はもともと非常に高いので、スタートアップの科学者たちはそのリスクを取る価値があると考えている。 ピーター・レイは、虚空に浮かぶMALT1阻害薬を見つめ、「もし薬を市場に出せたら、母との約束を果たしたと感じられるでしょう」と言った。それから、毒性を引き起こす可能性があるとして除去する方法をAIが示した箇所を指差した。それは、研究に関わった人間の誰も思いつかなかった発想だった。 真の問題は、AIを使って設計された分子が従来よりも市場に到達しやすくなるかどうかだ。プロセスの最後の数段階こそが、最も費用がかかり、かつ最も予測がつかない。臨床試験では適切な被験者を見つけることがいつも難しい、とInsilicoの臨床開発担当副社長キャロル・サトラーは言う。時間がかかる上、懸念も多いという──果たして自分は正しい選択をし、正しい医師に連絡を取り、薬の効果が期待できない人を試験から正しく除外して効果が見込める人を含め、その薬ができることを見極めるための正しい判断をしているだろうか。 薬が臨床試験段階に到達するとき、そこには10億ドルもの資金と、数百人、場合によっては数千人の科学者たちの10年がかかっている。ひとりの患者が登録する。それから、もうひとり。そうして数カ月がゆっくりと過ぎていく。「そのあいだもずっとメーターは上がり続けています。本当にお金がかかるんです」とサトラーは言う。 24年後半、RecursionがExscientiaの買収を完了してまもなく、両社の創薬研究者300人あまりがロンドンのイベント会場に集結した。 ピンク色の照明に照らされた会場は、数日前にRecursionの最高科学責任者が発表したニュースでざわめいていた。Exscientiaが開発した分子「REC-617」が、ほかの治療法が効かなくなった末期がん患者18人に投与されたのだ。第I相臨床試験の目的は、この新薬候補に患者の体が耐えられるかどうかと、薬の効果が実際に出るかどうかを同時に確認することだった。患者のひとり、卵巣がんの再発を3度繰り返していた女性が特にみなを驚かせた。生き延びたのだ。治療開始から6カ月経った時点で、彼女はまだ生存していた。試験は盲検化されているため、その女性が誰なのか、そしていまも生きているのかRecursionとExscientiaの誰も知ることはできない。それでも、その場では、彼女の存在が命の輝きを放っているように感じられた。 発表にはもうひとつ注目すべき点があった。ExscientiaはAIを使って候補分子を実際に合成する前に絞り込んでいたため、最終的に細胞で試験された分子は通常の数千よりもはるかに少ない136種類にとどまったのだ(レイのMALT1阻害剤の開発でも実際に合成したのは344種類で、従来の方法に比べて非常に少ない)。 Recursionの共同設立者でCEOのクリス・ギブソンは会場でのスピーチでこの数字を強調し、時間と資源の節約効果を訴えた。AIを使って新しい分子をつくり出すだけでなく、大半を早いうちにふるい落とすことができれば、この極めて高額なプロセスの初期段階にかかるコストを下げられるかもしれない、というわけだ。 会場のロビーでは、Recursionの最高医務責任者デイビッド・マウロ、Exscientiaの医薬品化学者ヤクブ・フルグほか数名の社員が輪になって立っていた。大規模なブラインドデートのようなものだ。初めて顔を合わせた人たちが、自分のことを語り合い、どのようなかたちで一緒にやっていけるかを探っていた。順番に自己紹介をしながら、それぞれの会社に入った理由を話していた。ある人は「楽しむため」と言い、別の人は「自分の価値観に合わなくなった仕事を続けるのにうんざりしたから」と言い、さらに別の人は「薬を実際に市場に出したいから」と言った。最後の言葉には全員がうなずいた。 地下階の部屋では、ギブソンも未来のことを考えていた。彼の願いは、Recursionの研究が業界全体にわたる創薬の未来の礎になることだ。その出発点になりうるのが、すでに臨床試験に進んでいる8つの薬と、その後ろに控える前臨床段階のいくつかの薬だ。「いまのやり方が正しくて、学習システムを確かに構築できているなら、次に開発する10種類の薬の成功確率はもっと高くなるはずです。そして、その次の10種類はさらに成功の確率が上がる。こうしてシステムを磨き続けていくのです」と彼は語った。 24年夏、ギブソンは近いうちに10種類ほどの候補薬に関する情報を公開するという旨の発言をしていた。それについてわたしが尋ねると、多数の薬の情報をひと塊として公表するのは意図的な戦略だと彼は説明した。候補薬の約90%は失敗に終わるので、最低でも10の異なる研究結果を示さなければ会社が狙い通りの成果を出しているかどうかは判断できないという。「最終的に、10の結果が揃ってからわたしたちを評価してもらうのがフェアでしょう。それが十分なn数です」とギブソンは言った。つまり、それだけの標本数があれば現行の手法が何を成しえるのかが見えてくるということだ。 24年暮れのある寒い朝、わたしはRecursionの“創薬エンジン”のひとつを見学しに行った。自動化部長のパトリック・コリンズと薬理学主任科学者のスー・ジャーウッドが、小型のスーパーマーケットほどの広さの部屋へ案内してくれた。部屋にはガラスケースに収められた機械が並び、上には後光のような白いランプが吊るされていた。「こちら側が生物学系、あちら側が化学系です」とコリンズは説明した。磁気式のレールが機械のあいだを通り、分注[訳注:液体試料を一定量ずつ分ける作業]ロボットと培養装置をつないでいる。「設計・製造・試験・学習のループですよ」とコリンズは言い、粉末の入った瓶や容器を指さした。「この建物のすべての部屋に、こういう試薬やそのほかの材料が詰まっています」。人間がそれらを機械に常に補充しておくのだ。 ジャーウッドの説明によれば、それらの機械は原子素材からつくられた分子を分注する。分子はAIによってあらかじめ仮想空間で試験され、詳細に検討済みのものだ。新薬候補の分子は細胞の入ったトレイに滴下され、システムがその作用を評価する。これはまだ新しいやり方で、改善すべき点もあるという。自動化されたプロセスの一部はいまだ人間の手が必要で、Recursionは AI とのあいだの情報のやりとりを効率化する方法を模索中だ、とコリンズは言った。それでも、うまく機能すれば何千ものテスト結果を画面上で確認できるようになる。この自動化システムは稼働開始からまだ1年ほどなので、臨床試験段階まで進んだ候補薬の開発にはいまのところ関与していない。だが、将来の薬の開発にはすでに貢献している。 清潔な部屋に整然と並ぶ機械を見渡しながら、わたしはこう思った。いまの時代、分子について考えること、分子をつくることが好きで、その働きを理解することに喜びを感じる人間である意味とは何なのだろうか。これをコリンズにも尋ねてみると、彼は初めて自分の手でタンパク質を結晶化させ、そこに薬の分子がぴたりと結合しているのを目にした瞬間を振り返った。「あれ以来、わたしの人生をこれに賭けようと思っています」と彼は言った。従来的なツールにもまだ役割はある。だがこの場での焦点は、確実に効果のあるものをできる限り早く臨床に届けることにあるのだろう。「みんな患者のことを考えています」とコリンズは言った。 ジャーウッドはこう答えた。「わたしはいつでも、何か新しいものに飢えているんです」。自動化ラボを見下ろしながら、彼女はまだ誰も足を踏み入れていない科学の領域、未知のプロセスの向こう側にある構造や反応を思い描いた。いまはまだ、太陽が水平線の上に顔を出し始めたばかりだ。ジャーウッドは、これから機械がやるようになるかもしれないこと、自分がもうやらなくなるだろうことの数々について考えた。「向かう先は手つかずの領域ですよね。自動化のおかげで、わたしにはその領域を探るための時間ができる。そのリスクを取る時間の余裕ができるんです」 一方、製薬研究者のなかには、科学の限界を押し拡げることや病気を治すことを超えたAIの可能性に目を向ける者もいる。InsilicoのCEOで共同設立者であるアレックス・ザヴォロンコフは、自社は病気と老化の両方に関わる標的を重視していると語る。例えば、同社が開発中の特発性肺線維症の候補薬は、特定の生物学的経路を抑制することで肺の線維化を防ぐよう設計されているが、同時に健康な細胞の老化を遅らせる可能性もあるという。ザヴォロンコフは、新しい薬をより早くより低コストで臨床に届けることを目指しながら、老化関連の疾患や衰えに対する新たな治療法も見つけ出そうとしているのだ。 ザヴォロンコフから話を聞いたとき、彼は中国の重慶で行なわれていた全社リトリートに参加していた。「20年後、わたしは66歳になります。父が66歳だったときの姿を見てきましたが、なかなか辛いものがありました」と彼は言った。そして、自分が高い期待を抱いていること、この業界でたやすく手に入るものではないとわかりつつもスピードを強く求めていることを率直に語った。それから、中国の蘇州にある自動化ラボの映像をわたしに見せ、「コロナ禍の最中に立ち上げたんです」と説明した。そのプロジェクトに携わった研究者たちは、施設に寝泊まりしながら24時間体制で稼働準備を進めたという。 施設にはどこかSF的な雰囲気が漂っていた。また、ザヴォロンコフの独特な実利主義にも同様のSF感がある。彼の腕には傷跡があり、それはさまざまな種類の細胞へと再プログラムして成長させられる人工多能性幹細胞(iPS細胞)をつくるために皮膚を切り取った跡だという。「わたしのiPS細胞を買いたい人がいれば、会社に連絡してもらえれば郵送しますよ」と彼は言った。「自分に関するデータがパブリックドメインに多く存在すればするほど、病気になったときに極めて優れた治療を受けられる可能性が高まります。特にそれが、がんの場合には」 ラボの映像では、カメラが黒い廊下を滑るように進み、前室を抜けてガラス張りの壁の前を移動していく。そのガラスは、中で機密性の高い作業が行なわれているときには曇らせることができる。その壁の向こうでは、試薬や細胞の入ったトレイを積んだ機械が並び、アームが旋回して材料や部品を移動させている。人間の出番はほとんどない。 いずれは何らかのかたちでAIツールが創薬の標準になるだろう、と医薬品化学者でブロガーのデレク・ローは考える。彼はこれに対する自分の立場について、短期的には悲観主義者だが長期的には楽観主義者だと語る。 この業界では同じことが何度も繰り返されてきた──新しい戦略が登場し、盛り上げられた期待の波に乗るが、やがて失敗し消え去っていくのだ。しかし、その一部はかたちを変えて復活し、やがて静かに「当たり前のもの」として定着する。創薬の巨人たちである大手製薬会社は、すでにAI関連の研究部門を立ち上げ始めている。その一方、RecursionはすでにAIを使って新しい分子を考案・試験しているだけでなく、臨床試験の参加者を見つけることへの活用も目指し、市場投入への準備という最もコストのかかる最終ステップを加速させようとしている。 ただし、この変革は犠牲なしには進まないだろう。「自動化技術もソフトウェアの発達も、ますます多くの仕事を“人間がやるようなものでない単純作業”の領域へ押しやっていくでしょう」とローは言う。人間の化学者が担ってきた多くの仕事は姿を消すだろう。「機械を使いこなせる人間が、そうでない人間に取って代わることになります」。ピーター・レイでさえ、もはや自分を医薬品化学者と呼ぶのは正確ではないと感じている。「自分はもう何か別のものです。正直、何と名乗るべきなのかわかりません」と彼は呟いた。 ロンドンでのブラインドデートから数カ月のあいだに、Recursionはふたつの新薬候補が臨床試験段階に入ったことを発表した。MALT1阻害薬と、肺がんの治療薬だ。消化器系疾患の薬はすでに臨床試験が進んでいる。Insilicoは特発性肺線維症の薬を第III相試験に進めようとしており、キャロル・サトラーが医師たちと電話でやりとりをしているところだ。1枚1枚、カードがめくられていく。レイは時々、スコットランドのダンディー近郊にある自宅の周辺をランニングしながら母のことを思うという。 ギブソンは、Recursionが長期戦として取り組んでいることについて思いをめぐらせた。その取り組みには切迫感が漂っている。なぜなら、目的は世界を変えることなのだから。彼個人の思いでは、人類はあまりにも長くそれを待たされてきた。「わが社には、愛する人を、ひとりに限らず複数の愛する人を病気で失った人がたくさんいます。そんな人たちは、みな怒っています。自分の家族、友人、子どもが得られなかった機会に対して、復讐を果たしたいという思いで働いているんです」と彼は言う。 時計の針は刻々と進み、日々が数えられる。そのあいだに薬は臨床試験を進み、誰もがその結果を待っている。時間、それはすべての人間が失い続けているものだ。ある者は、ほかの者よりも速く。 (Originally published on wired.
com, Translated by Risa Nagao/LIBER, edited by Nobuko Igari) ※『WIRED』による薬の関連記事はこちら。 AIが創薬にもたらした革命と、残された人間の役割 創薬を加速させる新しいAI、DeepMindが発表した「AlphaFold 3」が秘めた可能性 AI関連研究のノーベル賞受賞から考える、新たな科学研究の可能性と課題 気鋭のAI研究者たちやユヴァル・ノア・ハラリが語る「人類とAGIの未来」。伝説のゲームクリエイター・小島秀夫や小説家・川上未映子の「創作にかける思い」。大阪・関西万博で壮大なビジョンを実現した建築家・藤本壮介やアーティストの落合陽一。ビル・ゲイツの回顧録。さらには不老不死を追い求める富豪のブライアン・ジョンソン、Bガール・AMIまで──。未来をつくるヴォイスが、ここに。グローバルメディア『WIRED』が総力を結集し、世界を動かす“本音”を届ける人気シリーズ「The Big Interview」の決定版!!詳細はこちら。
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