いつの時代も新しいメディアは人間の集中力を削ぎ、脳を台無しにすると恐れられてきた。 しかし、問題は注意の散漫ではなく、何に注意を向けるかであり、「注意力の危機」という言説こそが、本質からわたしたちの注意をそらしているかもしれない。
毎年、最高の映画に贈られる賞はあるが、最高のTikTok動画に贈られる賞はない。残念なことだ。2024年にはいくつかの傑作が誕生したのだから。例えば、@yojairyjaimeeが創作した、カニエ・ウェスト(現在はイェに改名)が09年に披露した奇妙なステージパフォーマンスを1分間で完璧に再現した動画。@accountwashackedwith50mによる、チョコレートをかけたイチゴをR&Bバンドのサックス奏者の視点から撮影した12秒間の映像。あるいは@notkennaが投稿した、とんでもなく安っぽい特殊効果を使って、箒に乗って宙を飛ぶ犬を映した7秒の動画などだ。そうしたネット上を彩る宝石は、詩人パトリシア・ロックウッドが「瞬間のサファイア」と呼ぶものであり、確かにそのどれもが不思議な、人を惹きつける輝きを発している。 ただし、それらを長く見つめてはいけない。そうした動画のすべてが表現の炸裂であるとしたら、TikTokを長時間見続けるということは、目の前で延々と花火が打ち上げられているようなものだ。健康にいいはずがない。2010年、テクノロジー系ライターのニコラス・カーが、ピューリッツァー賞の最終候補になった著書『The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains』(邦訳『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』)で同じ懸念を問題提起した。カーは、「インターネットは集中力と熟考の能力をわたしから奪う」と指摘し、長い本を読むのが難しくなってきたと、自身の経験を語る。そして非常に優秀な哲学部学生──世界で最も権威のあるRhodes奨学制度で学ぶ、お墨付きの学生だ──を例に挙げ、彼は本を一切読まず、もっぱらGoogleで情報を集めていたと明かした。カーは、その学生は「例外ではなく、多くの学生がそうしているようだ」と読者の不安をかき立てた。 カーは、界隈に雪崩を引き起こした。ニール・イヤールの『Indistractable』(邦訳『最強の集中力』)、ヨハン・ハリの『Stolen Focus』(未邦訳)、カル・ニューポートの『Deep Work』(邦訳『大事なことに集中する』)、ジェニー・オデルの『How to Do Nothing』(邦訳『何もしない』)など、注意力の荒廃に関する本がたくさん書かれ、広く読まれた。カー自身も新作『Superbloom』(未邦訳)で、注意散漫だけでなく、インターネットが引き起こすあらゆる心理的な害について論じている。わたしたち人類は「意識の断片化」に苦しみ、この世界は「情報によって理解不能なものに変えられた」と、カーは主張する。 1冊読めば不安になる。だが、さらに2冊も読むと、心のなかに潜む疑り深い悪魔が目を覚ます。批評家たちは、ピアノフォルテ[編註: 18世紀に登場した音量の大きな鍵盤楽器。ピアノの原型]に始まり、印刷技術の進歩が生んだ極彩色の刺激的なポスターにいたるまで、あらゆるものに対して、脳をかき乱す恐れがあると警告してこなかっただろうか? プラトンの『パイドロス』でさえ、書くことで人の記憶が台無しになるとするソクラテスの主張を、長々と記していたではないか。 わたしが特に気に入っているのは、1843年に小説家のナサニエル・ホーソーンが書いたエッセイだ。ホーソーンはある強力な技術の出現により、それ以降に生まれる人が大人の会話をする能力を失うと警告し、人々は共に過ごす同じ空間ではなく、別々に過ごす場所を探すようになるだろうと予言した。穏やかな会話は辛辣な言葉のやり取りになり、「あらゆる人間的な交流」が「致命的な冷たさに包まれる」と。ホーソーンが恐れた強力な技術とは何か? それは、それまで一家団欒の場となっていた暖炉に取って代わった鉄のストーブだった。 実際のところ、カーらもまた、いま振り返ってみれば大した問題ではなかったとわかる物事に対しても警鐘が鳴らされてきたと認めている。だが、だからと言って、安心してもいいのだろうか? 現在のデジタル技術は、以前の技術よりも明らかに中毒性が高い。過去の憂慮を、現在の状況がどれほど悪化したかを測る尺度と見ることもできる。例えば、批評家たちがテレビを危険視したのは正しかったとしよう。そのテレビがいまは無害に思えるのだから、それこそが現行メディアのたちの悪さの証拠だと言えないだろうか。 カーの『ネット・バカ』からすでに15年が過ぎた。そしていま、このジャンルでおそらく最も洗練された見解を述べたのが、ニュース専門チャンネルMSNBCのアンカー、クリス・ヘイズが著した『The Sirens’ Call』(未邦訳)だ。ヘイズは、上述のようなパニックが歴史を通じて何度も繰り返されてきたと認める。そのうちのいくつかは、例えば1950年代のコミック本など、いまでは笑える話でさえある、と。しかし、なかには予言的なものもあった。喫煙に対する早期の警告などだ。「グローバルでユビキタスな常時接続式ソーシャルメディアの発達は、コミック本のようなものだろうか、それともタバコだろうか?」とヘイズは問いかける。 いいところを突いた問いだ。もしわたしたちが懐疑論者の意見を真剣に受け止めたとしても、破滅を恐れる人々の主張はどこまで信じるに値するのだろう? ヘイズは重く受け止めるべきだと考えている。「この国はメガホンで拡声された絶え間ない喧騒に溢れ、わたしたちは圧倒的な音の壁の中に閉じ込められている。カジノのまばゆい光が24時間年中無休で絶えず点滅している。それらすべてが、利益のためにわたしたちの注意をそらそうとする綿密に設計されたシステムの一部だ」と述べている。そのような状況下で冷静に考えて合理的に議論しようとするのは、「ストリップクラブで瞑想しようとする」ような話だ、と主張する。彼の指摘は思慮深く、情報に基づいていて、不安をかきたてる。だが、現代人を説得する力はあるだろうか? 歴史的に見ても、これまで幾度となく、注意力の散漫について嘆かれてきた。点滅する光とストリッパーは、決して新しい問題ではない。だが、この種の問題に関する過去の議論において重視すべき点は、それらが本当に議論されてきたということだ。全員が、空が落ちてくると不安になっていたわけでなく、適切な疑問を呈する反対論者もいた。そもそも、注意を払うのは本当によいことなのか? それは誰の役に立つのか? このような問いは18世紀にも提起された。「小説」という新しい破壊要因が台頭したからだ。現代の批評家は、人々が長い小説を読む能力を失ったと嘆くが、そのような本は、かつてはいまのジャンクフードと同じようなものとみなされていたのである。 英国国教会の司祭であるヴィセシマス・ノックスは「小説は注意力を深く固定し、あまりに現実的な快楽を提供するため、一度その状態に慣れると、真剣な学習という痛みを伴う仕事には戻れなくなる」と不満を漏らしている。トーマス・ジェファーソンは、小説という「ゴミの山」に魅せられた読者は、「健全な読書」をする忍耐力を失うだろうと警告した。彼らは「肥大した想像力、病的な判断力、人生のあらゆる現実的な側面に対する嫌悪感」に苦しむことになる、と。 英文学者のナタリー・M・フィリップスが著書『Distraction』(未邦訳)で説明するように、人気作家たちは異なる見方をした。注意をそらさずに集中し続けることがはたして健全かと疑問を呈したのだ。精神が正しく働くには、意識がある程度あちこちへ飛躍する必要があるのではないのか、と。サミュエル・ジョンソンが書いた2つのエッセイ集『The Rambler』(1750-52)と『The Idler』(1758-60)は、そのような精神の行ったり来たりを楽しんでいた。ジョンソンは何冊もの本を次々と手に取り、同じように頻繁にそれらを閉じ棚に戻した。知人に最後まで読んだのかと問われたジョンソンは「目を通した」と答え、「あなたは本を最後まで読むのですか?」と尋ね返したという。 フィリップスは1759年から67年にかけて出版されたローレンス・スターンの『The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman』(邦訳『トリストラム・シャンディ』)の主人公であるトリストラム・シャンディを注意散漫の典型例として紹介している。この小説はトリストラムが母親の胎内で命を宿すところから始まる。性行為の最中、父親が絶頂を迎えた瞬間、母親が突然「ねえ、あなた、時計のネジを巻くのを忘れたんじゃない?」と口にする。これがきっかけで、トリストラムは注意散漫な子として生まれた。この名前さえも、注意力の欠如から生まれた。本当はトリスメジスタスという名にする予定だったのだが、牧師補にその名を告げる役目を任されたメイドが何かに気をとられて、名前の後半の部分を忘れてしまったのだ。トリストラムは、そのような悲痛な物語を、息もつかせぬ勢いで余談を織り交ぜながら語る。 9巻にわたる散漫な作品において、トリストラムは一度も自分の人生を語れなかった。それでも、読者はトリストラムの奔放な思考に魅了される。伝統的に権威ある人々から揺るがない集中力を求められてきた当時の読者は、この作品を解放的と感じたのではないだろうかとフィリップスは推測する。英国国教会で広く用いられていた教理問答集には、「正しい方法で祈るのに必要なこととは?」という問いに対して、「気をそらさずに集中すること」という答えが載っている。 サミュエル・ジョンソンの辞書では、「to attend」の項目に複数の意味が挙げられている。最初は「集中すること」、ふたつ目はそれに関連して、「従者として仕えること」とある。近年出版された、19世紀の米国における注意の歴史を記したカレブ・スミスの『Thoreau’s Axe』(未邦訳)はこの点を明確に浮き彫りにしている。何世紀にもわたり、思想家たちは注意散漫を避けようとしてきた。しかし、注意しろという叫びが最も強く発せられたのは、配下、学童、女性に対してであった。軍では司令官が「気をつけ!」と一喝すると、部下は直立姿勢になる。つまり、注意とは、自己規律のかたちであると同時に、他人を律する手段でもあるのだ。 19世紀になり、産業化が進んだ社会生活が求める過度の集中に対して、警戒心を抱く人が現れた。精神科医のジャン・エティエンヌ・ドミニク・エスキロールが新たな症状として「モノマニア(偏執症)」を提唱した。この言葉は、いまのADHD(注意欠陥・多動性障害)のように広く用いられた。エスキロールはこの症状を時代特有の疾患とみなした。ハーマン・メルヴィルは『白鯨』でこの症状を物語の中心に据えている。エイハブ船長の白鯨への執着が彼を破滅に導く。また、集中の極限とも言える催眠状態もまた、広く懸念の対象となった。 キューバ生まれのポール・ラファルグはカール・マルクスの娘婿でもあるが、注意に関する不安を政治運動のテーマにした(ラファルグのエッセイは最近New York Review Booksから再刊された)。すでに1880年代に、ラファルグは、自らの自然な本能を抑圧してまで仕事に集中するのは美徳ではないとし、それはむしろ抑圧者のために「機械の一部として働く」態度であると主張した。そして、革命的な意識とは、「怠惰である権利」を主張することだと強調し、世界の労働者にリラックスすることを呼びかけた。 地下出版された『トリストラム・シャンディ』のコピーで若者が勧誘されるラファルグ的な抵抗運動の様子を想像してみる。しかし、若者は本当にその本を読むだろうか? わたしはいま、学生たちに対して20年ほど前に出していた半分ほどの課題しか出さなくなった。わたし以外にも多くの教授が課題を減らす必要性を感じている。「わたしはこれまで15年以上、いくつかの小さな教養系のカレッジで教えてきたが、ここ5年の間にまるで誰かがスイッチを入れたかのように変わった」と神学者のアダム・コツコが書いている。「学生たちは10ページを超える文章を恐れ、20ページ程度の読書でも、何も理解することなく読むのをやめてしまう」 注意力の重要性について過去の人々が何を考えていたにせよ、悲観論者たちは、現代の問題はまったく異なっていると主張するだろう。もはや人が本を読んでいるのではなく、まるで本が人を読んでいるかのようだと。TikTokはこの点で特に優れている。あなたがスクロールすれば、アプリは学習する──あなたの行動およびスマートフォンから集めたあらゆる情報をもとに、あなたが何に興味を示すかを。「わたしはよく冷や汗をかいて目を覚まし、われわれは世界に何をもたらしてしまったのかと考える」。iPhoneの開発に携わったトニー・ファデルの言葉だ。 関連記事:われわれはWeb3のアップルになる──天才トニー・ファデルが手がける“暗号通貨のiPod” クリス・ヘイズは参考として、1850年代に繰り広げられたエイブラハム・リンカーンとスティーブン・A・ダグラスの討論を指摘する。当時とても重要だった奴隷制に関して、3時間におよぶ演説の応酬が行なわれたのだ。ヘイズはその演説が非常に複雑で重層的だったと感心し、「言い換えや入れ子構造に満ちた複雑な文章を駆使し、文の冒頭でアイデアが提示され、しばらく論述が進んだのちに、再びそのアイデアが取り上げられる」と指摘している。リンカーンとダグラスの聴衆は「とんでもないスタミナの集中力」を有していたに違いないと想像する。 そして、たくさんの聴衆が演説に聞き入った。現在の有権者も、同じような討論会に群がるだろうか? おそらくそうはならないだろうと、ヘイズは言う。いまでは情報が「どんどん短くなる断片」として流通し、「集中を維持するのはますます難しくなっている」。ヘイズは自らそれを体験してきた。ケーブルニュース放送の舞台裏を紹介しながら、減りつつある視聴者を引き止めるために、思慮深いジャーナリストたちが自らの質を落としつつあると説明する。派手なグラフィック、大きな声、次々と変わる話題、刺激的なストーリーなどはどれも、犬を呼び寄せるために鍵をガチャガチャと鳴らすようなものだ。アプリを通じてニュースを知る人が増えるにつれ、テレビのプロデューサーは鍵の音を大きくしなければならなくなった。 ある意味、わたしたち自身がこの状況を望んだとも言える。あらゆるシステムがわたしたちの選択に基づいて動くのだから。だが、必ずしも自由意志に基づいて選んだとは限らない。ヘイズは自発的注意と無意識的注意を区別する。わたしたちが自分で選んで集中することもあれば、心理的な生来の性質によって無視することができない場合もあるということだ。デジタルツールは、オンライン・プラットフォームがわたしたちの衝動を利用することを可能にした。つまりわたしたちの本来望むべき欲求ではなく、無意識の衝動を刺激しようとするのだ。哲学者の故ハリー・フランクファートの言葉を借りるなら、アルゴリズムは「われわれが望むものを提供する」が、「われわれが望みたいと望むもの」は提供しない。 「望みたいと望むもの」(どのようなことを望む人間になりたいか)ではなく、「望むもの」(衝動的に欲しいもの)が手に入る、これこそが、わたしたちの時代にふさわしいスローガンかもしれない。ヘイズは、わたしたちの本能に目を向けるのは企業だけではないと指摘する。ソーシャルメディアのユーザーは瞬時にフィードバックにアクセスできるため、ユーザーたちもまた、何が人々の注目を集めるかを学んでいく。数年前までは、ドナルド・トランプとイーロン・マスクとカニエ・ウェストの間には共通点がほとんどなかった。それがいまでは、彼らの人目を引こうとする欲求が、「注目を浴びたいトロール」というひとつの同じペルソナに変貌した。そしてわたしたちは、どうしてもそこから目をそらすことができない。 悔しいことに、わたしたちの注目を本当に必要としている気候変動という問題は、「注意力から逃れてしまう」とヘイズは書いている。「これまでずっと問題だったのは」、と文筆家で活動家でもあるビル・マッキベンが指摘する。「この世界で最も危険なものは、目に見えず、無味無臭で、人間に直接何かをしてくることがない」。地球の温暖化はカニエ・ウェストの対極にある。注目したいとは思うのに、していないのだ。 関連記事:地球を救うために、脱成長は本当に必要なのか? 問題は「注意資本主義」であると、ヘイズは主張する。産業資本主義が労働者の肉体に影響をおよぼすのと同じように、注意資本主義は消費者の心理に対して人間性を損なう影響をおよぼす。注意資本主義者たちは、魅力的な何かを用いて人々の注意力を引き止めるのではなく、スロットマシンのような仕掛けで注意力をどんどん奪っていく。注意資本主義者たちはわたしたちそれぞれを個人とみなさず、眼球、つまりただ見るだけの者として扱い、「わたしたちの精神に入り込み」、痙攣させる。「わたしたちは自分の心を支配する力が突破されてしまった」とヘイズは書いている。「わたしたちが経験している変革の規模は、最も強く不安を表明する批評家が理解しているよりもはるかに大きく、切実だ」 この種の議論で厄介なのは、何気なく「注意力の持続時間」という言葉が使われるが、この持続時間は心理学者が文脈から切り離して測れる性質のものではない点にある。また、スマートフォンの利用が認知能力に悪影響を与えるとまことしやかに主張されているが、そのような調査結果もまた、実際には矛盾が見られ、はっきりとした結論はまだ出ていない。ADHDと診断される件数は多いが、本当にその症状が増えているのだろうか? それとも、診断法が普及し、そう結論づけられることが増えただけだろうか? 米国では労働生産性と、4年以上の大学教育を受けた人の割合は、インターネット時代を通じて上昇し続けているのだ。 読書量の減少という指摘に関しても、うのみにするわけにはいかない。紙の本の売上は安定しているし、オーディオブックの販売数は増えている。最近、全米教育統計センターが米国内の児童の読書能力を調査した。結果はパンデミック期とほぼ変わらず、1971年に行なった最初の調査と同等あるいはそれよりも向上していた。一流大学で課題が短くなっているのは、いまの超競争社会では、学生の質が下がったのではなく、ただ忙しくなっただけかもしれない(そもそも、昔の学生が本当にすべてを読んでいたのかも疑わしい)。本を読まないRhodes奨学生が読書のない未来を象徴している、というニコラス・カーによる2010年の主張はどうか?「もちろん、わたしは本を読む!」と、カーに取り上げられたRhodes奨学生本人が、別のライターに抗議している。その人物はオックスフォード大学で博士号を得て、すでに本を2冊執筆している。 インターネットが登場して数十年、メディアの世界はいまだに性的コンテンツ、子ネコ、トランポリンの失敗などを映した3秒ほどの動画、あるいはスポーツ賭博の広告であふれている。法学者のティム・ウーが著書『The Attention Merchants』(未邦訳)で主張したように、注意散漫への道は一方通行ではない。企業は極めて魅力的なエサを使ってわたしたちの関心を引き止めようとするが、わたしたちはそれに慣れて無視する、あるいは反発するようになる。 瞑想、バードウォッチング、アナログレコードが流行しているのも、同じ理由で説明できるかもしれない。実際、テクノロジー企業は、頻繁にユーザーに訴えかけるために、日々の雑事(請求書の支払いや旅行の計画など)だけでなく、オンラインでの攻撃なども含めて、注意をそらす要因を減らすと約束する。グーグルのテキスト広告とメールフィルターは、初期のインターネットスパムやポップアップ広告を減らした。アップルはシンプルさを売りにすることで、世界有数の企業になった。 加えて言えば、注意散漫とは相対的な状態だ。ある事柄から意識が外れるとは、別の事柄に意識が向くことを意味する。そして、人々が集中できなくなっていると主張するつもりなら、多くの人が何時間も連続で意図的にスクリーンを見つめているという単純な事実を説明できなければならない。延々とスクロールし続けるのも、熱心な読書と呼べないだろうか? 人は、たとえどこかで集中できないとしても、別の場所ではうまく集中しているのである。 人々がうまく集中できる場所の例として、映画館を挙げることができる。映画界はいま複雑で理解が難しいバロック期にある。今年のゴールデン・グローブ賞では、上映時間が3時間半を超える『ブルータリスト』が最も多くの賞を獲得した。興行収入トップ10に入る映画の平均上映時間は、1993年から2023年にかけて20分以上延びている。ハリウッドが続編制作や過去の知的財産の再利用などを連発している状況──マーベルのマイティ・ソーがディズニーのリトルマーメイドと戦うクロスオーバー作品がつくられても不思議はないほどだ──は、映画界にとってはマイナスになるかもしれない。しかし、この状況は説明が必要な背景描写とファンサービスがぎっしり詰まった複雑な映画を生み出すことになったのだ。 同じことが、テレビドラマにも言える。テレビドラマはかつて注意力のない人向けの娯楽で、単純なストーリー、大ざっぱなジョーク、ケロッグのシリアルをけたたましく連呼する熱帯の鳥のCMなどが特徴だった。しかし、ケーブルテレビ、DVD、ストリーミング番組の台頭により、状況は変化した(最初のストリーミングシリーズとなる「ハウス・オブ・カード 野望の階段」は13年に登場した)。視聴者がストーリーについてこられなくなる不安がなくなったため、脚本家は超長編映画のようなドラマをつくるようになった。それを視聴者は何時間も「一気見」する。「ブレイキング・バッド」を生み出したヴィンス・ギリガンは、それを「巨大な吸引」と呼んだ。 あるいは、ビデオゲームを考えてみよう。ゲームもまた、容赦なく長くなった。数年前『New Yorker』においてアレックス・ロスがリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指環」(上演に15時間を要する4部構成のオペラ)を取り上げ、「おそらく、これまでにつくられたなかで最も野心的な作品」と称し、「将来、これに匹敵する芸術作品が生まれる可能性は低い」と書いた。23年、「バルダーズ・ゲート3」をひっさげたラリアン・スタジオがビデオゲーム界の賞を総なめにした。敵対する神々、魔法の指輪、魔力をもつ剣、ドラゴンなど、ワーグナーと共通する部分の多いゲーム作品だ。その制作には、248人の俳優と400人ほどの開発者が関与した。ルールが複雑で、時間をかけて考えながら進めるターン制の「バルダーズ・ゲート3」は、プレイ時間が75時間を優に超える。言い換えれば「ニーベルングの指環」5回分だ(完璧主義者ならさらに倍の時間がかかるだろう)。それにもかかわらず、このゲームは1,500万本売れた。 集中力をだめにすると主張されるTikTokさえ、別の見方ができる。テレビ業界で働くヘイズは、TikTokを見る対象、いわばアルゴリズムによって個人用にカスタマイズされた「バカ動画」としてしか理解していない。だが、TikTokは参加型のプラットフォームだ。米国の場合、成人ユーザーの半数以上が、自らも動画を投稿したことがある。このプラットフォームの優れた点は、見栄えのいいコンテンツではなく、アマチュアの熱心な参加であり、それがしばしば数え切れないほどのバリエーションを伴うトレンドとなることだ。そこに参加するために、ティックトッカーたちは何時間もかけて難しいダンスステップを練習し、コスチュームを変え、メイクを施し、口の動きをシンクロさせ、トリック映像をつくり、いたずらをし、トロンプ・ルイユ風のカメラ操作をマスターする。 いったい、何が起きているのか? メディア理論家のニール・ヴァーマが著作『Narrative Podcasting in an Age of Obsession』(未邦訳)のなかで、TikTokの台頭を「没頭の文化」に悩まされている時代と定義した。オンラインメディアは、潜在的な関心の対象を拡げることで、恥ずかしげもなく偏執的な知的スタイルを生み出した。ヴァーマは大ヒットした「Serial」というポッドキャストに注目する。14年に公開された最初のシーズンでは、ポッドキャストのホスト女性が、何時間もかけて15年前に起きた殺人事件の詳細を追及する様子が語られる。 しかし、そのような範囲の狭いトピックへの深入りが標準になった。広く名を知られるポッドキャスターのジョー・ローガンは、古代文明、宇宙学、総合格闘技などについて、4時間を超えるマラソン・インタビューを行なう。Youtuberのジェニー・ニコルソンがディズニー・ワールドにある現在は閉鎖されたホテルの設計上の欠陥を事細かに解説した動画は4時間におよぶにもかかわらず、1,100万回視聴された(それにふさわしいすばらしい出来栄えでもある)。ヘイズ自身、古いカーペットが洗浄される様子を「完全に魅了されて」何時間も見続けたと告白している。 カーペットを見つめ続けるわたしたちは、重要な政治問題を無視しているのだろうか? ヘイズはリンカーンとダグラスの討論会を高く評価するが、ふたりは数千人という騒々しい聴衆の前でマイクもなしに話したのである。したがって、聴衆が彼らの言葉のすべてを理解したとはとうてい考えられない(そこでは酒も酌み交わされていた)。また、南北戦争直前に行なわれた議論では奴隷制も話題に上ったが、どちらの陣営も奴隷制の廃止を唱えなかったのだから、その討論の道徳的な意味での真剣さを称賛するのも難しい。もし、全体主義の歴史から教訓が得られるとすれば、長い演説は必ずしも政治の健全さの証明にはならないという事実だろう。 いずれにせよ、一般教書演説に見てとれる政治的冗長性は、21世紀になってさらに増大した。一度、ドナルド・トランプはCPAC(保守政治行動会議)で2時間以上演説した。誰もが知っているように、彼のスピーチは脱線しやすく、理解するには右翼の思想に深く潜り込む必要がある。「わたしは9つの異なる話題について話すが、それらはすべて最後には完璧に結びつく」とトランプは豪語した。言語学者のジョン・マクウォーターはトランプの入り組んだスタイルを「ユダヤ教典タルムードに書かれている何かであるかのように解釈しなければならない」と表現している。 わたしたちは、インターネットが政治の二極化を強め、注意力の持続時間を減らしていると文句を言うが、実際には逆の傾向が生じている。文化に当てはまることは政治にも当てはまる。人は主流から離れるにつれ、どんどん偏執的になり、ウサギの穴に深く潜るようになる。Qアノンに従うには、K-POPファンに期待されるような新たなかたちの献身が求められる。民主社会主義者、ワクチン懐疑論者、反シオニスト、男性第一主義のアルファ男──彼らの政治的関与は決して軽々しいものではない。なかには情報を誤って理解している人もいるだろうが、情報から隔離されているわけではない。主流の政治や社会から阻害された人々の間では、「自分で調べろ」が声高に唱えられている。要するに、断片化はサブカルチャー的な深みにつながるのだ。サイロ化は深刻な問題だ。 ヘイズはインターネットにおける政治熱のせいで、気候温暖化から関心がそらされてしまうと恐れる。しかし、気候変動に最も強く反対しているのは、わたしたちのなかでもオンラインにいる時間がいちばん長い若者であるのは、見逃しようのない事実だ。Z世代のグレタ・トゥーンベリは、メディア学者が「グレタ効果」と名付けたほど、この問題を喧伝するのが上手だった。その彼女は、15歳のころからインターネット上を騒がせてきた。 もし、人が集中力を失ったり、自己満足の状態に陥ったりしていないのなら、パニックになる必要があるだろうか? 注意散漫の指摘は、主にジャーナリスト、アーティスト、小説家、大学教授などといった知識階級から聞こえてくる。そうした人々は制限されることなく長時間にわたって創造力を駆使する必要があるため、特にオンラインで邪魔が入ることに対して脆弱だと言える。そうした人々はInstagramに悩まされるが、訪問介護員、小売店やファストフードの店員などといった米国内で最も数の多い職種の人々は、Instagramにいらだちを覚えてはいないのだ。 知識階級の抱える問題の大部分は、文化のクリエイターたち、特に従来のメディアに従事している人々が、スマートフォンが自分たちの視聴者を奪ってしまうと恐れている点に起因している。この意味で、そうした人々は女性を祈りから遠ざけるとして小説を批判した18世紀の司祭と、何ら変わりがないと言える。一見したところ注意力の危機だと思えていたものは、実際には権威の危機ではないだろうか?「人々は注意を払わなくなった」は、「人々はわたしに注目しない」をそれらしく言い換えただけではないのか? 注意主義者たちが人々の目を何に向けさせようとしているかを考えると、すべてはメディア界の民主化に直面したエリートたちの不安の表れにすぎないのではないかという疑念がさらに深まる。一般的に、それらは美術であったり、古い書籍あるいは手つかずの自然であったりする。まるでコネチカットの寄宿学校のカリキュラムだ。何より忍耐が、言い換えれば直接には魅力もなく、理解もできない何かに固執することが求められる。忍耐は美徳ではあるが、評論家が他人にその重要性を説くときには、まるで夫が愛する妻をほめるときのような、自己愛のにおいが漂ってくる。これは、会話の責任を聞き手に押し付け、話し手に長々とした、あいまいな、あるいは自己満足的な主張をすることを許す態度だ。誰かが聴衆に対して忍耐を求めると、わたしはすぐに、あなたがもう少しおもしろい話をすればいい、と考えてしまう。 ある意味、注意の欠如に警鐘を鳴らす人々は、負けつつある競争において自分の保護を求めていると言える。確かに、市場は常にすばらしい結果をもたらしてくれるわけではなく、ヘイズが知的生活の商業化を嘆くのも一理ある。しかし、本に書かれ、バーコードを付され、書店で売られる思想よりも、自由なオンライン・プラットフォームに投稿された思想のほうが、市場原理で歪められる度合いは少ないのではないかとも考えられる。 忍耐を失ったわたしたちには読めなくなった19世紀の長大な小説がそれほどまでに長かったのには、理由があることを忘れてはならない。利益を求める出版社が著者に、複数巻におよぶ長い物語を書くよう求めたのだ。市場原理が数世紀にもわたって思想を薄め、延ばし、ねじ曲げ、抑圧してきた。実際のところ、問題は「商品化対自由」ではなく、どの商品化形態が最適なのか、である。 ヘイズがアプリを嫌うのは、それらが同意なしに動作するからだ。トリックを用いて人の注目を集める。わたしたちはどうすることもできず、呆然としてしまう。しかし、彼のとても説得力のある主張にさえ、用心が必要だ。メディアはこれまでもずっと、人間の欲望を相手に奇妙なダンスを繰り拡げてきた。ヘイズは、いまのわたしたちが陥っている苦境は極めて新しいものだと主張するが、彼の著作のタイトル『The Sirens’ Call』は、抗えないほど魅力的なセイレーンの歌声というホメロスの古い物語を彷彿とさせる。そして、それは必ずしもネガティブなことではない。 例として、本を称賛する言葉を思い浮かべてみよう。魅了する、惹きつける、没頭する、夢中にさせる、心を奪われるなど、どれも主体性を手放したときに覚える感情だ(「ページをめくる手が止まらない」も)。わたしたちは他人に対して、主体性の放棄、つまり服従を非難するが、奇妙なことに、服従こそ、わたしたちが自分に望むものなのである。 注意力の危機を警告する人々は、TikTokにのめりこむスクリーン世代の若者という悪夢を描く。だが、これは現在の全体像を映しているのではなく、同時に、将来の多くを予言するものでもないだろう。わたしたちの時代は、没頭の時代でもあり散漫の時代でもある。長い形式の時代でも短い形式の時代でもあり、熱狂の時代でも無関心の時代でもある。苦しみを社会に蔓延する注意欠陥障害のせいにするのは、誤った診断だ。 なぜなら、残念なことだが、わたしたちとスマートフォンの関係は、まったくもって健全ではないからだ。メディア環境は、不安、ねたみ、妄想、怒りの渦巻く海と化しつつある。わたしたちの注意は驚くべき、そしてしばしば憂慮すべき方法で誘導されている。議論の過熱、陰謀論的思考の増加、共有する事実の空洞化、これらはすべてリアルに存在する事態であり、慎重に考慮していかなければならない。しかし、注意力が失われたとするパニックは、わたしたちの注意をそらす要因でしかない。 (Originally published on The New Yorker , translated by Kei Hasegawa/LIBER, edited by Nobuko Igari) ※『WIRED』によるソーシャル・メディアの関連記事はこちら。 従来の古典コンピュータが、「人間が設計した論理と回路」によって【計算を定義】ものであれば、量子コンピュータは、「自然がもつ情報処理のリズム」──複数の可能性がゆらぐように共存し、それらが干渉し、持ち合いながら、最適な解決まで収束していく流れ──に乗ることで、【計算を引き出す】アプローチと知恵ができる。来たるべき「2030年代(クオンタム・エイジ)」に向けた必読の「量子百科(クオンタムペディア)」!.
毎年、最高の映画に贈られる賞はあるが、最高のTikTok動画に贈られる賞はない。残念なことだ。2024年にはいくつかの傑作が誕生したのだから。例えば、@yojairyjaimeeが創作した、カニエ・ウェスト(現在はイェに改名)が09年に披露した奇妙なステージパフォーマンスを1分間で完璧に再現した動画。@accountwashackedwith50mによる、チョコレートをかけたイチゴをR&Bバンドのサックス奏者の視点から撮影した12秒間の映像。あるいは@notkennaが投稿した、とんでもなく安っぽい特殊効果を使って、箒に乗って宙を飛ぶ犬を映した7秒の動画などだ。そうしたネット上を彩る宝石は、詩人パトリシア・ロックウッドが「瞬間のサファイア」と呼ぶものであり、確かにそのどれもが不思議な、人を惹きつける輝きを発している。 ただし、それらを長く見つめてはいけない。そうした動画のすべてが表現の炸裂であるとしたら、TikTokを長時間見続けるということは、目の前で延々と花火が打ち上げられているようなものだ。健康にいいはずがない。2010年、テクノロジー系ライターのニコラス・カーが、ピューリッツァー賞の最終候補になった著書『The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains』(邦訳『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』)で同じ懸念を問題提起した。カーは、「インターネットは集中力と熟考の能力をわたしから奪う」と指摘し、長い本を読むのが難しくなってきたと、自身の経験を語る。そして非常に優秀な哲学部学生──世界で最も権威のあるRhodes奨学制度で学ぶ、お墨付きの学生だ──を例に挙げ、彼は本を一切読まず、もっぱらGoogleで情報を集めていたと明かした。カーは、その学生は「例外ではなく、多くの学生がそうしているようだ」と読者の不安をかき立てた。 カーは、界隈に雪崩を引き起こした。ニール・イヤールの『Indistractable』(邦訳『最強の集中力』)、ヨハン・ハリの『Stolen Focus』(未邦訳)、カル・ニューポートの『Deep Work』(邦訳『大事なことに集中する』)、ジェニー・オデルの『How to Do Nothing』(邦訳『何もしない』)など、注意力の荒廃に関する本がたくさん書かれ、広く読まれた。カー自身も新作『Superbloom』(未邦訳)で、注意散漫だけでなく、インターネットが引き起こすあらゆる心理的な害について論じている。わたしたち人類は「意識の断片化」に苦しみ、この世界は「情報によって理解不能なものに変えられた」と、カーは主張する。 1冊読めば不安になる。だが、さらに2冊も読むと、心のなかに潜む疑り深い悪魔が目を覚ます。批評家たちは、ピアノフォルテ[編註: 18世紀に登場した音量の大きな鍵盤楽器。ピアノの原型]に始まり、印刷技術の進歩が生んだ極彩色の刺激的なポスターにいたるまで、あらゆるものに対して、脳をかき乱す恐れがあると警告してこなかっただろうか? プラトンの『パイドロス』でさえ、書くことで人の記憶が台無しになるとするソクラテスの主張を、長々と記していたではないか。 わたしが特に気に入っているのは、1843年に小説家のナサニエル・ホーソーンが書いたエッセイだ。ホーソーンはある強力な技術の出現により、それ以降に生まれる人が大人の会話をする能力を失うと警告し、人々は共に過ごす同じ空間ではなく、別々に過ごす場所を探すようになるだろうと予言した。穏やかな会話は辛辣な言葉のやり取りになり、「あらゆる人間的な交流」が「致命的な冷たさに包まれる」と。ホーソーンが恐れた強力な技術とは何か? それは、それまで一家団欒の場となっていた暖炉に取って代わった鉄のストーブだった。 実際のところ、カーらもまた、いま振り返ってみれば大した問題ではなかったとわかる物事に対しても警鐘が鳴らされてきたと認めている。だが、だからと言って、安心してもいいのだろうか? 現在のデジタル技術は、以前の技術よりも明らかに中毒性が高い。過去の憂慮を、現在の状況がどれほど悪化したかを測る尺度と見ることもできる。例えば、批評家たちがテレビを危険視したのは正しかったとしよう。そのテレビがいまは無害に思えるのだから、それこそが現行メディアのたちの悪さの証拠だと言えないだろうか。 カーの『ネット・バカ』からすでに15年が過ぎた。そしていま、このジャンルでおそらく最も洗練された見解を述べたのが、ニュース専門チャンネルMSNBCのアンカー、クリス・ヘイズが著した『The Sirens’ Call』(未邦訳)だ。ヘイズは、上述のようなパニックが歴史を通じて何度も繰り返されてきたと認める。そのうちのいくつかは、例えば1950年代のコミック本など、いまでは笑える話でさえある、と。しかし、なかには予言的なものもあった。喫煙に対する早期の警告などだ。「グローバルでユビキタスな常時接続式ソーシャルメディアの発達は、コミック本のようなものだろうか、それともタバコだろうか?」とヘイズは問いかける。 いいところを突いた問いだ。もしわたしたちが懐疑論者の意見を真剣に受け止めたとしても、破滅を恐れる人々の主張はどこまで信じるに値するのだろう? ヘイズは重く受け止めるべきだと考えている。「この国はメガホンで拡声された絶え間ない喧騒に溢れ、わたしたちは圧倒的な音の壁の中に閉じ込められている。カジノのまばゆい光が24時間年中無休で絶えず点滅している。それらすべてが、利益のためにわたしたちの注意をそらそうとする綿密に設計されたシステムの一部だ」と述べている。そのような状況下で冷静に考えて合理的に議論しようとするのは、「ストリップクラブで瞑想しようとする」ような話だ、と主張する。彼の指摘は思慮深く、情報に基づいていて、不安をかきたてる。だが、現代人を説得する力はあるだろうか? 歴史的に見ても、これまで幾度となく、注意力の散漫について嘆かれてきた。点滅する光とストリッパーは、決して新しい問題ではない。だが、この種の問題に関する過去の議論において重視すべき点は、それらが本当に議論されてきたということだ。全員が、空が落ちてくると不安になっていたわけでなく、適切な疑問を呈する反対論者もいた。そもそも、注意を払うのは本当によいことなのか? それは誰の役に立つのか? このような問いは18世紀にも提起された。「小説」という新しい破壊要因が台頭したからだ。現代の批評家は、人々が長い小説を読む能力を失ったと嘆くが、そのような本は、かつてはいまのジャンクフードと同じようなものとみなされていたのである。 英国国教会の司祭であるヴィセシマス・ノックスは「小説は注意力を深く固定し、あまりに現実的な快楽を提供するため、一度その状態に慣れると、真剣な学習という痛みを伴う仕事には戻れなくなる」と不満を漏らしている。トーマス・ジェファーソンは、小説という「ゴミの山」に魅せられた読者は、「健全な読書」をする忍耐力を失うだろうと警告した。彼らは「肥大した想像力、病的な判断力、人生のあらゆる現実的な側面に対する嫌悪感」に苦しむことになる、と。 英文学者のナタリー・M・フィリップスが著書『Distraction』(未邦訳)で説明するように、人気作家たちは異なる見方をした。注意をそらさずに集中し続けることがはたして健全かと疑問を呈したのだ。精神が正しく働くには、意識がある程度あちこちへ飛躍する必要があるのではないのか、と。サミュエル・ジョンソンが書いた2つのエッセイ集『The Rambler』(1750-52)と『The Idler』(1758-60)は、そのような精神の行ったり来たりを楽しんでいた。ジョンソンは何冊もの本を次々と手に取り、同じように頻繁にそれらを閉じ棚に戻した。知人に最後まで読んだのかと問われたジョンソンは「目を通した」と答え、「あなたは本を最後まで読むのですか?」と尋ね返したという。 フィリップスは1759年から67年にかけて出版されたローレンス・スターンの『The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman』(邦訳『トリストラム・シャンディ』)の主人公であるトリストラム・シャンディを注意散漫の典型例として紹介している。この小説はトリストラムが母親の胎内で命を宿すところから始まる。性行為の最中、父親が絶頂を迎えた瞬間、母親が突然「ねえ、あなた、時計のネジを巻くのを忘れたんじゃない?」と口にする。これがきっかけで、トリストラムは注意散漫な子として生まれた。この名前さえも、注意力の欠如から生まれた。本当はトリスメジスタスという名にする予定だったのだが、牧師補にその名を告げる役目を任されたメイドが何かに気をとられて、名前の後半の部分を忘れてしまったのだ。トリストラムは、そのような悲痛な物語を、息もつかせぬ勢いで余談を織り交ぜながら語る。 9巻にわたる散漫な作品において、トリストラムは一度も自分の人生を語れなかった。それでも、読者はトリストラムの奔放な思考に魅了される。伝統的に権威ある人々から揺るがない集中力を求められてきた当時の読者は、この作品を解放的と感じたのではないだろうかとフィリップスは推測する。英国国教会で広く用いられていた教理問答集には、「正しい方法で祈るのに必要なこととは?」という問いに対して、「気をそらさずに集中すること」という答えが載っている。 サミュエル・ジョンソンの辞書では、「to attend」の項目に複数の意味が挙げられている。最初は「集中すること」、ふたつ目はそれに関連して、「従者として仕えること」とある。近年出版された、19世紀の米国における注意の歴史を記したカレブ・スミスの『Thoreau’s Axe』(未邦訳)はこの点を明確に浮き彫りにしている。何世紀にもわたり、思想家たちは注意散漫を避けようとしてきた。しかし、注意しろという叫びが最も強く発せられたのは、配下、学童、女性に対してであった。軍では司令官が「気をつけ!」と一喝すると、部下は直立姿勢になる。つまり、注意とは、自己規律のかたちであると同時に、他人を律する手段でもあるのだ。 19世紀になり、産業化が進んだ社会生活が求める過度の集中に対して、警戒心を抱く人が現れた。精神科医のジャン・エティエンヌ・ドミニク・エスキロールが新たな症状として「モノマニア(偏執症)」を提唱した。この言葉は、いまのADHD(注意欠陥・多動性障害)のように広く用いられた。エスキロールはこの症状を時代特有の疾患とみなした。ハーマン・メルヴィルは『白鯨』でこの症状を物語の中心に据えている。エイハブ船長の白鯨への執着が彼を破滅に導く。また、集中の極限とも言える催眠状態もまた、広く懸念の対象となった。 キューバ生まれのポール・ラファルグはカール・マルクスの娘婿でもあるが、注意に関する不安を政治運動のテーマにした(ラファルグのエッセイは最近New York Review Booksから再刊された)。すでに1880年代に、ラファルグは、自らの自然な本能を抑圧してまで仕事に集中するのは美徳ではないとし、それはむしろ抑圧者のために「機械の一部として働く」態度であると主張した。そして、革命的な意識とは、「怠惰である権利」を主張することだと強調し、世界の労働者にリラックスすることを呼びかけた。 地下出版された『トリストラム・シャンディ』のコピーで若者が勧誘されるラファルグ的な抵抗運動の様子を想像してみる。しかし、若者は本当にその本を読むだろうか? わたしはいま、学生たちに対して20年ほど前に出していた半分ほどの課題しか出さなくなった。わたし以外にも多くの教授が課題を減らす必要性を感じている。「わたしはこれまで15年以上、いくつかの小さな教養系のカレッジで教えてきたが、ここ5年の間にまるで誰かがスイッチを入れたかのように変わった」と神学者のアダム・コツコが書いている。「学生たちは10ページを超える文章を恐れ、20ページ程度の読書でも、何も理解することなく読むのをやめてしまう」 注意力の重要性について過去の人々が何を考えていたにせよ、悲観論者たちは、現代の問題はまったく異なっていると主張するだろう。もはや人が本を読んでいるのではなく、まるで本が人を読んでいるかのようだと。TikTokはこの点で特に優れている。あなたがスクロールすれば、アプリは学習する──あなたの行動およびスマートフォンから集めたあらゆる情報をもとに、あなたが何に興味を示すかを。「わたしはよく冷や汗をかいて目を覚まし、われわれは世界に何をもたらしてしまったのかと考える」。iPhoneの開発に携わったトニー・ファデルの言葉だ。 関連記事:われわれはWeb3のアップルになる──天才トニー・ファデルが手がける“暗号通貨のiPod” クリス・ヘイズは参考として、1850年代に繰り広げられたエイブラハム・リンカーンとスティーブン・A・ダグラスの討論を指摘する。当時とても重要だった奴隷制に関して、3時間におよぶ演説の応酬が行なわれたのだ。ヘイズはその演説が非常に複雑で重層的だったと感心し、「言い換えや入れ子構造に満ちた複雑な文章を駆使し、文の冒頭でアイデアが提示され、しばらく論述が進んだのちに、再びそのアイデアが取り上げられる」と指摘している。リンカーンとダグラスの聴衆は「とんでもないスタミナの集中力」を有していたに違いないと想像する。 そして、たくさんの聴衆が演説に聞き入った。現在の有権者も、同じような討論会に群がるだろうか? おそらくそうはならないだろうと、ヘイズは言う。いまでは情報が「どんどん短くなる断片」として流通し、「集中を維持するのはますます難しくなっている」。ヘイズは自らそれを体験してきた。ケーブルニュース放送の舞台裏を紹介しながら、減りつつある視聴者を引き止めるために、思慮深いジャーナリストたちが自らの質を落としつつあると説明する。派手なグラフィック、大きな声、次々と変わる話題、刺激的なストーリーなどはどれも、犬を呼び寄せるために鍵をガチャガチャと鳴らすようなものだ。アプリを通じてニュースを知る人が増えるにつれ、テレビのプロデューサーは鍵の音を大きくしなければならなくなった。 ある意味、わたしたち自身がこの状況を望んだとも言える。あらゆるシステムがわたしたちの選択に基づいて動くのだから。だが、必ずしも自由意志に基づいて選んだとは限らない。ヘイズは自発的注意と無意識的注意を区別する。わたしたちが自分で選んで集中することもあれば、心理的な生来の性質によって無視することができない場合もあるということだ。デジタルツールは、オンライン・プラットフォームがわたしたちの衝動を利用することを可能にした。つまりわたしたちの本来望むべき欲求ではなく、無意識の衝動を刺激しようとするのだ。哲学者の故ハリー・フランクファートの言葉を借りるなら、アルゴリズムは「われわれが望むものを提供する」が、「われわれが望みたいと望むもの」は提供しない。 「望みたいと望むもの」(どのようなことを望む人間になりたいか)ではなく、「望むもの」(衝動的に欲しいもの)が手に入る、これこそが、わたしたちの時代にふさわしいスローガンかもしれない。ヘイズは、わたしたちの本能に目を向けるのは企業だけではないと指摘する。ソーシャルメディアのユーザーは瞬時にフィードバックにアクセスできるため、ユーザーたちもまた、何が人々の注目を集めるかを学んでいく。数年前までは、ドナルド・トランプとイーロン・マスクとカニエ・ウェストの間には共通点がほとんどなかった。それがいまでは、彼らの人目を引こうとする欲求が、「注目を浴びたいトロール」というひとつの同じペルソナに変貌した。そしてわたしたちは、どうしてもそこから目をそらすことができない。 悔しいことに、わたしたちの注目を本当に必要としている気候変動という問題は、「注意力から逃れてしまう」とヘイズは書いている。「これまでずっと問題だったのは」、と文筆家で活動家でもあるビル・マッキベンが指摘する。「この世界で最も危険なものは、目に見えず、無味無臭で、人間に直接何かをしてくることがない」。地球の温暖化はカニエ・ウェストの対極にある。注目したいとは思うのに、していないのだ。 関連記事:地球を救うために、脱成長は本当に必要なのか? 問題は「注意資本主義」であると、ヘイズは主張する。産業資本主義が労働者の肉体に影響をおよぼすのと同じように、注意資本主義は消費者の心理に対して人間性を損なう影響をおよぼす。注意資本主義者たちは、魅力的な何かを用いて人々の注意力を引き止めるのではなく、スロットマシンのような仕掛けで注意力をどんどん奪っていく。注意資本主義者たちはわたしたちそれぞれを個人とみなさず、眼球、つまりただ見るだけの者として扱い、「わたしたちの精神に入り込み」、痙攣させる。「わたしたちは自分の心を支配する力が突破されてしまった」とヘイズは書いている。「わたしたちが経験している変革の規模は、最も強く不安を表明する批評家が理解しているよりもはるかに大きく、切実だ」 この種の議論で厄介なのは、何気なく「注意力の持続時間」という言葉が使われるが、この持続時間は心理学者が文脈から切り離して測れる性質のものではない点にある。また、スマートフォンの利用が認知能力に悪影響を与えるとまことしやかに主張されているが、そのような調査結果もまた、実際には矛盾が見られ、はっきりとした結論はまだ出ていない。ADHDと診断される件数は多いが、本当にその症状が増えているのだろうか? それとも、診断法が普及し、そう結論づけられることが増えただけだろうか? 米国では労働生産性と、4年以上の大学教育を受けた人の割合は、インターネット時代を通じて上昇し続けているのだ。 読書量の減少という指摘に関しても、うのみにするわけにはいかない。紙の本の売上は安定しているし、オーディオブックの販売数は増えている。最近、全米教育統計センターが米国内の児童の読書能力を調査した。結果はパンデミック期とほぼ変わらず、1971年に行なった最初の調査と同等あるいはそれよりも向上していた。一流大学で課題が短くなっているのは、いまの超競争社会では、学生の質が下がったのではなく、ただ忙しくなっただけかもしれない(そもそも、昔の学生が本当にすべてを読んでいたのかも疑わしい)。本を読まないRhodes奨学生が読書のない未来を象徴している、というニコラス・カーによる2010年の主張はどうか?「もちろん、わたしは本を読む!」と、カーに取り上げられたRhodes奨学生本人が、別のライターに抗議している。その人物はオックスフォード大学で博士号を得て、すでに本を2冊執筆している。 インターネットが登場して数十年、メディアの世界はいまだに性的コンテンツ、子ネコ、トランポリンの失敗などを映した3秒ほどの動画、あるいはスポーツ賭博の広告であふれている。法学者のティム・ウーが著書『The Attention Merchants』(未邦訳)で主張したように、注意散漫への道は一方通行ではない。企業は極めて魅力的なエサを使ってわたしたちの関心を引き止めようとするが、わたしたちはそれに慣れて無視する、あるいは反発するようになる。 瞑想、バードウォッチング、アナログレコードが流行しているのも、同じ理由で説明できるかもしれない。実際、テクノロジー企業は、頻繁にユーザーに訴えかけるために、日々の雑事(請求書の支払いや旅行の計画など)だけでなく、オンラインでの攻撃なども含めて、注意をそらす要因を減らすと約束する。グーグルのテキスト広告とメールフィルターは、初期のインターネットスパムやポップアップ広告を減らした。アップルはシンプルさを売りにすることで、世界有数の企業になった。 加えて言えば、注意散漫とは相対的な状態だ。ある事柄から意識が外れるとは、別の事柄に意識が向くことを意味する。そして、人々が集中できなくなっていると主張するつもりなら、多くの人が何時間も連続で意図的にスクリーンを見つめているという単純な事実を説明できなければならない。延々とスクロールし続けるのも、熱心な読書と呼べないだろうか? 人は、たとえどこかで集中できないとしても、別の場所ではうまく集中しているのである。 人々がうまく集中できる場所の例として、映画館を挙げることができる。映画界はいま複雑で理解が難しいバロック期にある。今年のゴールデン・グローブ賞では、上映時間が3時間半を超える『ブルータリスト』が最も多くの賞を獲得した。興行収入トップ10に入る映画の平均上映時間は、1993年から2023年にかけて20分以上延びている。ハリウッドが続編制作や過去の知的財産の再利用などを連発している状況──マーベルのマイティ・ソーがディズニーのリトルマーメイドと戦うクロスオーバー作品がつくられても不思議はないほどだ──は、映画界にとってはマイナスになるかもしれない。しかし、この状況は説明が必要な背景描写とファンサービスがぎっしり詰まった複雑な映画を生み出すことになったのだ。 同じことが、テレビドラマにも言える。テレビドラマはかつて注意力のない人向けの娯楽で、単純なストーリー、大ざっぱなジョーク、ケロッグのシリアルをけたたましく連呼する熱帯の鳥のCMなどが特徴だった。しかし、ケーブルテレビ、DVD、ストリーミング番組の台頭により、状況は変化した(最初のストリーミングシリーズとなる「ハウス・オブ・カード 野望の階段」は13年に登場した)。視聴者がストーリーについてこられなくなる不安がなくなったため、脚本家は超長編映画のようなドラマをつくるようになった。それを視聴者は何時間も「一気見」する。「ブレイキング・バッド」を生み出したヴィンス・ギリガンは、それを「巨大な吸引」と呼んだ。 あるいは、ビデオゲームを考えてみよう。ゲームもまた、容赦なく長くなった。数年前『New Yorker』においてアレックス・ロスがリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指環」(上演に15時間を要する4部構成のオペラ)を取り上げ、「おそらく、これまでにつくられたなかで最も野心的な作品」と称し、「将来、これに匹敵する芸術作品が生まれる可能性は低い」と書いた。23年、「バルダーズ・ゲート3」をひっさげたラリアン・スタジオがビデオゲーム界の賞を総なめにした。敵対する神々、魔法の指輪、魔力をもつ剣、ドラゴンなど、ワーグナーと共通する部分の多いゲーム作品だ。その制作には、248人の俳優と400人ほどの開発者が関与した。ルールが複雑で、時間をかけて考えながら進めるターン制の「バルダーズ・ゲート3」は、プレイ時間が75時間を優に超える。言い換えれば「ニーベルングの指環」5回分だ(完璧主義者ならさらに倍の時間がかかるだろう)。それにもかかわらず、このゲームは1,500万本売れた。 集中力をだめにすると主張されるTikTokさえ、別の見方ができる。テレビ業界で働くヘイズは、TikTokを見る対象、いわばアルゴリズムによって個人用にカスタマイズされた「バカ動画」としてしか理解していない。だが、TikTokは参加型のプラットフォームだ。米国の場合、成人ユーザーの半数以上が、自らも動画を投稿したことがある。このプラットフォームの優れた点は、見栄えのいいコンテンツではなく、アマチュアの熱心な参加であり、それがしばしば数え切れないほどのバリエーションを伴うトレンドとなることだ。そこに参加するために、ティックトッカーたちは何時間もかけて難しいダンスステップを練習し、コスチュームを変え、メイクを施し、口の動きをシンクロさせ、トリック映像をつくり、いたずらをし、トロンプ・ルイユ風のカメラ操作をマスターする。 いったい、何が起きているのか? メディア理論家のニール・ヴァーマが著作『Narrative Podcasting in an Age of Obsession』(未邦訳)のなかで、TikTokの台頭を「没頭の文化」に悩まされている時代と定義した。オンラインメディアは、潜在的な関心の対象を拡げることで、恥ずかしげもなく偏執的な知的スタイルを生み出した。ヴァーマは大ヒットした「Serial」というポッドキャストに注目する。14年に公開された最初のシーズンでは、ポッドキャストのホスト女性が、何時間もかけて15年前に起きた殺人事件の詳細を追及する様子が語られる。 しかし、そのような範囲の狭いトピックへの深入りが標準になった。広く名を知られるポッドキャスターのジョー・ローガンは、古代文明、宇宙学、総合格闘技などについて、4時間を超えるマラソン・インタビューを行なう。Youtuberのジェニー・ニコルソンがディズニー・ワールドにある現在は閉鎖されたホテルの設計上の欠陥を事細かに解説した動画は4時間におよぶにもかかわらず、1,100万回視聴された(それにふさわしいすばらしい出来栄えでもある)。ヘイズ自身、古いカーペットが洗浄される様子を「完全に魅了されて」何時間も見続けたと告白している。 カーペットを見つめ続けるわたしたちは、重要な政治問題を無視しているのだろうか? ヘイズはリンカーンとダグラスの討論会を高く評価するが、ふたりは数千人という騒々しい聴衆の前でマイクもなしに話したのである。したがって、聴衆が彼らの言葉のすべてを理解したとはとうてい考えられない(そこでは酒も酌み交わされていた)。また、南北戦争直前に行なわれた議論では奴隷制も話題に上ったが、どちらの陣営も奴隷制の廃止を唱えなかったのだから、その討論の道徳的な意味での真剣さを称賛するのも難しい。もし、全体主義の歴史から教訓が得られるとすれば、長い演説は必ずしも政治の健全さの証明にはならないという事実だろう。 いずれにせよ、一般教書演説に見てとれる政治的冗長性は、21世紀になってさらに増大した。一度、ドナルド・トランプはCPAC(保守政治行動会議)で2時間以上演説した。誰もが知っているように、彼のスピーチは脱線しやすく、理解するには右翼の思想に深く潜り込む必要がある。「わたしは9つの異なる話題について話すが、それらはすべて最後には完璧に結びつく」とトランプは豪語した。言語学者のジョン・マクウォーターはトランプの入り組んだスタイルを「ユダヤ教典タルムードに書かれている何かであるかのように解釈しなければならない」と表現している。 わたしたちは、インターネットが政治の二極化を強め、注意力の持続時間を減らしていると文句を言うが、実際には逆の傾向が生じている。文化に当てはまることは政治にも当てはまる。人は主流から離れるにつれ、どんどん偏執的になり、ウサギの穴に深く潜るようになる。Qアノンに従うには、K-POPファンに期待されるような新たなかたちの献身が求められる。民主社会主義者、ワクチン懐疑論者、反シオニスト、男性第一主義のアルファ男──彼らの政治的関与は決して軽々しいものではない。なかには情報を誤って理解している人もいるだろうが、情報から隔離されているわけではない。主流の政治や社会から阻害された人々の間では、「自分で調べろ」が声高に唱えられている。要するに、断片化はサブカルチャー的な深みにつながるのだ。サイロ化は深刻な問題だ。 ヘイズはインターネットにおける政治熱のせいで、気候温暖化から関心がそらされてしまうと恐れる。しかし、気候変動に最も強く反対しているのは、わたしたちのなかでもオンラインにいる時間がいちばん長い若者であるのは、見逃しようのない事実だ。Z世代のグレタ・トゥーンベリは、メディア学者が「グレタ効果」と名付けたほど、この問題を喧伝するのが上手だった。その彼女は、15歳のころからインターネット上を騒がせてきた。 もし、人が集中力を失ったり、自己満足の状態に陥ったりしていないのなら、パニックになる必要があるだろうか? 注意散漫の指摘は、主にジャーナリスト、アーティスト、小説家、大学教授などといった知識階級から聞こえてくる。そうした人々は制限されることなく長時間にわたって創造力を駆使する必要があるため、特にオンラインで邪魔が入ることに対して脆弱だと言える。そうした人々はInstagramに悩まされるが、訪問介護員、小売店やファストフードの店員などといった米国内で最も数の多い職種の人々は、Instagramにいらだちを覚えてはいないのだ。 知識階級の抱える問題の大部分は、文化のクリエイターたち、特に従来のメディアに従事している人々が、スマートフォンが自分たちの視聴者を奪ってしまうと恐れている点に起因している。この意味で、そうした人々は女性を祈りから遠ざけるとして小説を批判した18世紀の司祭と、何ら変わりがないと言える。一見したところ注意力の危機だと思えていたものは、実際には権威の危機ではないだろうか?「人々は注意を払わなくなった」は、「人々はわたしに注目しない」をそれらしく言い換えただけではないのか? 注意主義者たちが人々の目を何に向けさせようとしているかを考えると、すべてはメディア界の民主化に直面したエリートたちの不安の表れにすぎないのではないかという疑念がさらに深まる。一般的に、それらは美術であったり、古い書籍あるいは手つかずの自然であったりする。まるでコネチカットの寄宿学校のカリキュラムだ。何より忍耐が、言い換えれば直接には魅力もなく、理解もできない何かに固執することが求められる。忍耐は美徳ではあるが、評論家が他人にその重要性を説くときには、まるで夫が愛する妻をほめるときのような、自己愛のにおいが漂ってくる。これは、会話の責任を聞き手に押し付け、話し手に長々とした、あいまいな、あるいは自己満足的な主張をすることを許す態度だ。誰かが聴衆に対して忍耐を求めると、わたしはすぐに、あなたがもう少しおもしろい話をすればいい、と考えてしまう。 ある意味、注意の欠如に警鐘を鳴らす人々は、負けつつある競争において自分の保護を求めていると言える。確かに、市場は常にすばらしい結果をもたらしてくれるわけではなく、ヘイズが知的生活の商業化を嘆くのも一理ある。しかし、本に書かれ、バーコードを付され、書店で売られる思想よりも、自由なオンライン・プラットフォームに投稿された思想のほうが、市場原理で歪められる度合いは少ないのではないかとも考えられる。 忍耐を失ったわたしたちには読めなくなった19世紀の長大な小説がそれほどまでに長かったのには、理由があることを忘れてはならない。利益を求める出版社が著者に、複数巻におよぶ長い物語を書くよう求めたのだ。市場原理が数世紀にもわたって思想を薄め、延ばし、ねじ曲げ、抑圧してきた。実際のところ、問題は「商品化対自由」ではなく、どの商品化形態が最適なのか、である。 ヘイズがアプリを嫌うのは、それらが同意なしに動作するからだ。トリックを用いて人の注目を集める。わたしたちはどうすることもできず、呆然としてしまう。しかし、彼のとても説得力のある主張にさえ、用心が必要だ。メディアはこれまでもずっと、人間の欲望を相手に奇妙なダンスを繰り拡げてきた。ヘイズは、いまのわたしたちが陥っている苦境は極めて新しいものだと主張するが、彼の著作のタイトル『The Sirens’ Call』は、抗えないほど魅力的なセイレーンの歌声というホメロスの古い物語を彷彿とさせる。そして、それは必ずしもネガティブなことではない。 例として、本を称賛する言葉を思い浮かべてみよう。魅了する、惹きつける、没頭する、夢中にさせる、心を奪われるなど、どれも主体性を手放したときに覚える感情だ(「ページをめくる手が止まらない」も)。わたしたちは他人に対して、主体性の放棄、つまり服従を非難するが、奇妙なことに、服従こそ、わたしたちが自分に望むものなのである。 注意力の危機を警告する人々は、TikTokにのめりこむスクリーン世代の若者という悪夢を描く。だが、これは現在の全体像を映しているのではなく、同時に、将来の多くを予言するものでもないだろう。わたしたちの時代は、没頭の時代でもあり散漫の時代でもある。長い形式の時代でも短い形式の時代でもあり、熱狂の時代でも無関心の時代でもある。苦しみを社会に蔓延する注意欠陥障害のせいにするのは、誤った診断だ。 なぜなら、残念なことだが、わたしたちとスマートフォンの関係は、まったくもって健全ではないからだ。メディア環境は、不安、ねたみ、妄想、怒りの渦巻く海と化しつつある。わたしたちの注意は驚くべき、そしてしばしば憂慮すべき方法で誘導されている。議論の過熱、陰謀論的思考の増加、共有する事実の空洞化、これらはすべてリアルに存在する事態であり、慎重に考慮していかなければならない。しかし、注意力が失われたとするパニックは、わたしたちの注意をそらす要因でしかない。 (Originally published on The New Yorker, translated by Kei Hasegawa/LIBER, edited by Nobuko Igari) ※『WIRED』によるソーシャル・メディアの関連記事はこちら。 従来の古典コンピュータが、「人間が設計した論理と回路」によって【計算を定義】ものであれば、量子コンピュータは、「自然がもつ情報処理のリズム」──複数の可能性がゆらぐように共存し、それらが干渉し、持ち合いながら、最適な解決まで収束していく流れ──に乗ることで、【計算を引き出す】アプローチと知恵ができる。来たるべき「2030年代(クオンタム・エイジ)」に向けた必読の「量子百科(クオンタムペディア)」!
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