結婚式場として屈指の人気を誇る「八芳園」。一時期は婚礼数が落ち込むなど苦難もあったが、数々のアイデアで乗り越えてきた。 取締役社長の井上義則が「ブライダルプランナー」として大切にしてきたこととは [Promotion]
八芳園ではこの日、過去に結婚式を挙げたカップルを招いて、あらためて感謝を示す初の試み「サンクスパーティ」が開かれていた。かつてここで挙式した2人が、一生の愛を誓い合った“聖地”への巡礼のように帰ってくる、特別な日となった。 招待したカップルは実に2,000組。招待状送付後、八芳園には問い合わせの電話が殺到し、電話回線がパンクした。この光景を万感の思いで見つめていたのが、発案者であり、常務取締役総支配人(当時)の井上義則だった。一組一組が井上の思い出であり、八芳園を成長させてくれた恩人だった。 03年、井上はある人物と相対していた。都内のブライダル運営会社の社員だった井上は当時、33歳。過去2回、井上はその人物の申し出を断っており、この日は3回目の面会だった。「八芳園に来てほしい」。同社の関係者はそう言って、井上に入社を請うた。 結婚式場を巡る環境は激変していた。ブライダルをプロデュースする新興の会社が数多く生まれ、結婚式の形態は多様化した。海外での結婚式も珍しくなくなっていた。その波にのみ込まれたのが、伝統的な結婚式場。八芳園はその代表格だったという。オーナーは、全面的な支援を約束する。一方、井上が出した条件は1つだけ。それは待遇でもなければ、年俸でもなかった。「肩書をつけない」というものだった。けげんな顔をするオーナー。だが、金ピカの肩書をもって現場に入れば反発を招く。フリーハンドで自由に動けることが、井上には必要だったのだ。のちに八芳園再建の立役者となる井上だが、その肩書は、常務になるまでただの“ブライダルプランナー”だった。職場に加わった井上は、こんな光景を目にする。午後3時になるや、若手社員らがせっせとコーヒーや紅茶を淹れてベテラン社員たちの机に運んでいた。井上は思わず口を開く。家康側臣から孫文、バイデン大統領までひも解けば、八芳園の80年の歴史はまさに物語の積み重ねだ。そもそもその敷地は、江戸時代に徳川家康、秀忠、家光の3代にわたって仕えた忠臣、大久保彦左衛門の屋敷であったといわれる。大久保の人柄を愛した家康から贈られたというサンシュユの木は、八芳園内にある料亭「壺中庵」の庭園にいまも残っている。 大正時代にこの庭園を拡張し、現在のかたちに整え、そして愛したのが、一代にして久原財閥をつくり上げた政商、久原房之助だった。現在も存続している日立製作所、日産自動車、日立造船、ジャパンエナジーなどの源流は、久原財閥の中核企業・久原鉱業所だった。 明治期に誕生した財閥のなかで、久原が屹きつ立りつとそびえているのには訳がある。久原が鉱山開発で財を成したように、多くの財閥が鉱山経営を行っていた。だが、鉱山開発には公害がついて回った。足尾鉱毒事件などその最たるものだ。日立鉱山で公害問題を引き起こした久原は、金銭で表面的な解決を図ろうとした幹部に激怒する。「(被害住民への)公正な補償の結果、会社がつぶれても構わない。地元を泣かせて何のための経営か」。 一方で、政界でも大物だった久原は、庭園内の別邸(現在の料亭「壺中庵」)で多くの政治家の世話をしていた。そのなかのひとりが、中国から亡命していた「中国革命の父」こと孫文だった。久原は孫文の身を案じ、提供していた部屋の一角に、抜け穴を用意した。全長数百メートルの地下トンネルに通じる“孫文の抜け穴”だ。現在は塞がれているが、その入り口は歴史をいまに伝える生き証人として保存されている。積み重ねられた時を伝統と呼ぶ。しかし、時の積み重ねは同じ量だけの“危機”も孕はらむ。この20年、結婚式場業の市場規模は縮小の一途で、井上が入社した頃、八芳園の年間挙式組数はピーク時の3分の1に落ち込んでいた。経営は危機に瀕していた。 八芳園を変える―こう心に期した井上。毎朝6時過ぎにはその姿を八芳園で見ることができた。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。泊まり込むこともしばしばで、早朝、洗面所で顔を遮二無二洗う姿を目撃した社員も少なくない。 やることは山のようにあった。前述したように「社員よりもお客様だ」と叫んだ井上は、婚礼サロンに出向いては「おかわりはいかがですか?」とコーヒーを注いで回った。最初は奇異な目で見ていた若い社員たちも、1人、2人と、井上のまねをするようになっていった。井上は忙しかった。並の忙しさではなかった。昼間は営業に奔走した。井上は総料理長を伴い、八芳園オリジナルの「サンザシの果汁」を手土産に、都内のブライダルエージェントを片っ端から回った。「この料理長が編み出す料理を味わってもらいたいんですよ。八芳園は、100組あれば100通りの料理、100通りの結婚式を提供できますから。ぜひチャンスをください」そんな思いから生まれたサービスが「前撮りプラン」だ。挙式当日は時間の制約があり、慌ただしい。「お色直しのドレスでも記念撮影をしたかった」「庭園で和装写真を撮りたかった」……。新婦からこんな声が数多く聞こえてきた。井上はそれに応え、平日に限り、お色直しの衣装での前撮りを無料で行うサービスを始めた。反応は抜群によかった。 ある日、結婚式を控えた新郎が訪ねてきた。「自分たちが式を挙げるチャペルがどんなところか知りたい」。新婦は視覚障害者だった。井上がスタッフと頭をひねり考え出したのは、チャペルの模型を作ることだった。これなら、模型に手で触れながら、バージンロードや指輪交換の位置を前もって把握できる。新婦の喜ぶ様子は、いまも井上はじめチームの脳裏に刻まれている。100組のカップルがいれば100組の結婚式があり、100通りの喜びと涙がある。その感動は、カップルにとことん寄り添うスタッフらの熱意と誠意があってこそ生まれるものだ。だが、本当の再生はここからだった。売り上げの急カーブと同じだけのクレームがやってきたのだ。急増する婚礼数に現場が対応できない。料理の提供が遅れる。段取りを間違える。「一生に一度の晴れ舞台が台無しになった」厳しいクレームが続いた。井上はそのたびに新郎新婦のもとに走り、正座して頭を下げ続けた。塩をまかれ、水をかけられることもあった。忘れられないカップルがいるという。自分たちの不手際から披露宴を台無しにしてしまったカップルだ。何度も謝罪に行ったが、許してはもらえなかった。それでも、八芳園を選んでくれたお礼を込めて、井上は毎年「サンクスパーティ」の招待状を送り続けた。4年目のことだった。「井上さん」と声をかけられ振り向くと、あのカップルが笑顔で立っているではないか。世界を襲ったコロナ禍。その最中、八芳園は組織体制を、新事業を含め7つに編成した。なぜか。井上が八芳園80年の伝統をさらに受け継ぐ“鉱脈”を見つけ出したからだ。それは日本全国に眠る文化であり、芸能であり、食材だった。人に寄り添い歴史を紡いできた八芳園だが、今度はそうしたものに寄り添い、新たな歴史をつくろうとしている。 八芳園は東京五輪・パラ五輪の際、全国464の自治体が登録するホストタウン活動を支援した。このときの知見を生かし、地域の魅力発信に取り組むようになった。今後は全国の文化、芸能、食材を紹介し、磨き上げる“場”となる一方で、プロデュース企業として海外に発信もしていく。1943年創業。東京・白金台の約1万坪の敷地は、徳川家康の側臣であった大久保彦左衛門の屋敷とされる。実業家の渋沢喜作や久原房之助の所有を経て、1950年、割烹を経営していた長谷敏司が飲食店「八芳園」を開業。現在は結婚式場としても親しまれ、2007年に年間婚礼組数2,000組突破。22年には岸田文雄首相とバイデン米大統領の非公式夕食会会場にもなった。◎1970年生まれ。ブライダル企業でサービス・営業・企画・広報を経験。システム開発会社を経て、2003年に八芳園入社。年間1,000組ほどに落ち込んでいた婚礼数を4年で倍増させ、業績をV字回復に導く。取締役営業支配人、常務取締役総支配人、取締役専務総支配人を経て、2021年10月、取締役社長に就任。初の非創業家社長となった。.
八芳園ではこの日、過去に結婚式を挙げたカップルを招いて、あらためて感謝を示す初の試み「サンクスパーティ」が開かれていた。かつてここで挙式した2人が、一生の愛を誓い合った“聖地”への巡礼のように帰ってくる、特別な日となった。 招待したカップルは実に2,000組。招待状送付後、八芳園には問い合わせの電話が殺到し、電話回線がパンクした。この光景を万感の思いで見つめていたのが、発案者であり、常務取締役総支配人(当時)の井上義則だった。一組一組が井上の思い出であり、八芳園を成長させてくれた恩人だった。 03年、井上はある人物と相対していた。都内のブライダル運営会社の社員だった井上は当時、33歳。過去2回、井上はその人物の申し出を断っており、この日は3回目の面会だった。「八芳園に来てほしい」。同社の関係者はそう言って、井上に入社を請うた。 結婚式場を巡る環境は激変していた。ブライダルをプロデュースする新興の会社が数多く生まれ、結婚式の形態は多様化した。海外での結婚式も珍しくなくなっていた。その波にのみ込まれたのが、伝統的な結婚式場。八芳園はその代表格だったという。オーナーは、全面的な支援を約束する。一方、井上が出した条件は1つだけ。それは待遇でもなければ、年俸でもなかった。「肩書をつけない」というものだった。けげんな顔をするオーナー。だが、金ピカの肩書をもって現場に入れば反発を招く。フリーハンドで自由に動けることが、井上には必要だったのだ。のちに八芳園再建の立役者となる井上だが、その肩書は、常務になるまでただの“ブライダルプランナー”だった。職場に加わった井上は、こんな光景を目にする。午後3時になるや、若手社員らがせっせとコーヒーや紅茶を淹れてベテラン社員たちの机に運んでいた。井上は思わず口を開く。家康側臣から孫文、バイデン大統領までひも解けば、八芳園の80年の歴史はまさに物語の積み重ねだ。そもそもその敷地は、江戸時代に徳川家康、秀忠、家光の3代にわたって仕えた忠臣、大久保彦左衛門の屋敷であったといわれる。大久保の人柄を愛した家康から贈られたというサンシュユの木は、八芳園内にある料亭「壺中庵」の庭園にいまも残っている。 大正時代にこの庭園を拡張し、現在のかたちに整え、そして愛したのが、一代にして久原財閥をつくり上げた政商、久原房之助だった。現在も存続している日立製作所、日産自動車、日立造船、ジャパンエナジーなどの源流は、久原財閥の中核企業・久原鉱業所だった。 明治期に誕生した財閥のなかで、久原が屹きつ立りつとそびえているのには訳がある。久原が鉱山開発で財を成したように、多くの財閥が鉱山経営を行っていた。だが、鉱山開発には公害がついて回った。足尾鉱毒事件などその最たるものだ。日立鉱山で公害問題を引き起こした久原は、金銭で表面的な解決を図ろうとした幹部に激怒する。「(被害住民への)公正な補償の結果、会社がつぶれても構わない。地元を泣かせて何のための経営か」。 一方で、政界でも大物だった久原は、庭園内の別邸(現在の料亭「壺中庵」)で多くの政治家の世話をしていた。そのなかのひとりが、中国から亡命していた「中国革命の父」こと孫文だった。久原は孫文の身を案じ、提供していた部屋の一角に、抜け穴を用意した。全長数百メートルの地下トンネルに通じる“孫文の抜け穴”だ。現在は塞がれているが、その入り口は歴史をいまに伝える生き証人として保存されている。積み重ねられた時を伝統と呼ぶ。しかし、時の積み重ねは同じ量だけの“危機”も孕はらむ。この20年、結婚式場業の市場規模は縮小の一途で、井上が入社した頃、八芳園の年間挙式組数はピーク時の3分の1に落ち込んでいた。経営は危機に瀕していた。 八芳園を変える―こう心に期した井上。毎朝6時過ぎにはその姿を八芳園で見ることができた。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。泊まり込むこともしばしばで、早朝、洗面所で顔を遮二無二洗う姿を目撃した社員も少なくない。 やることは山のようにあった。前述したように「社員よりもお客様だ」と叫んだ井上は、婚礼サロンに出向いては「おかわりはいかがですか?」とコーヒーを注いで回った。最初は奇異な目で見ていた若い社員たちも、1人、2人と、井上のまねをするようになっていった。井上は忙しかった。並の忙しさではなかった。昼間は営業に奔走した。井上は総料理長を伴い、八芳園オリジナルの「サンザシの果汁」を手土産に、都内のブライダルエージェントを片っ端から回った。「この料理長が編み出す料理を味わってもらいたいんですよ。八芳園は、100組あれば100通りの料理、100通りの結婚式を提供できますから。ぜひチャンスをください」そんな思いから生まれたサービスが「前撮りプラン」だ。挙式当日は時間の制約があり、慌ただしい。「お色直しのドレスでも記念撮影をしたかった」「庭園で和装写真を撮りたかった」……。新婦からこんな声が数多く聞こえてきた。井上はそれに応え、平日に限り、お色直しの衣装での前撮りを無料で行うサービスを始めた。反応は抜群によかった。 ある日、結婚式を控えた新郎が訪ねてきた。「自分たちが式を挙げるチャペルがどんなところか知りたい」。新婦は視覚障害者だった。井上がスタッフと頭をひねり考え出したのは、チャペルの模型を作ることだった。これなら、模型に手で触れながら、バージンロードや指輪交換の位置を前もって把握できる。新婦の喜ぶ様子は、いまも井上はじめチームの脳裏に刻まれている。100組のカップルがいれば100組の結婚式があり、100通りの喜びと涙がある。その感動は、カップルにとことん寄り添うスタッフらの熱意と誠意があってこそ生まれるものだ。だが、本当の再生はここからだった。売り上げの急カーブと同じだけのクレームがやってきたのだ。急増する婚礼数に現場が対応できない。料理の提供が遅れる。段取りを間違える。「一生に一度の晴れ舞台が台無しになった」厳しいクレームが続いた。井上はそのたびに新郎新婦のもとに走り、正座して頭を下げ続けた。塩をまかれ、水をかけられることもあった。忘れられないカップルがいるという。自分たちの不手際から披露宴を台無しにしてしまったカップルだ。何度も謝罪に行ったが、許してはもらえなかった。それでも、八芳園を選んでくれたお礼を込めて、井上は毎年「サンクスパーティ」の招待状を送り続けた。4年目のことだった。「井上さん」と声をかけられ振り向くと、あのカップルが笑顔で立っているではないか。世界を襲ったコロナ禍。その最中、八芳園は組織体制を、新事業を含め7つに編成した。なぜか。井上が八芳園80年の伝統をさらに受け継ぐ“鉱脈”を見つけ出したからだ。それは日本全国に眠る文化であり、芸能であり、食材だった。人に寄り添い歴史を紡いできた八芳園だが、今度はそうしたものに寄り添い、新たな歴史をつくろうとしている。 八芳園は東京五輪・パラ五輪の際、全国464の自治体が登録するホストタウン活動を支援した。このときの知見を生かし、地域の魅力発信に取り組むようになった。今後は全国の文化、芸能、食材を紹介し、磨き上げる“場”となる一方で、プロデュース企業として海外に発信もしていく。1943年創業。東京・白金台の約1万坪の敷地は、徳川家康の側臣であった大久保彦左衛門の屋敷とされる。実業家の渋沢喜作や久原房之助の所有を経て、1950年、割烹を経営していた長谷敏司が飲食店「八芳園」を開業。現在は結婚式場としても親しまれ、2007年に年間婚礼組数2,000組突破。22年には岸田文雄首相とバイデン米大統領の非公式夕食会会場にもなった。◎1970年生まれ。ブライダル企業でサービス・営業・企画・広報を経験。システム開発会社を経て、2003年に八芳園入社。年間1,000組ほどに落ち込んでいた婚礼数を4年で倍増させ、業績をV字回復に導く。取締役営業支配人、常務取締役総支配人、取締役専務総支配人を経て、2021年10月、取締役社長に就任。初の非創業家社長となった。
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